俺はA案は受容できない。

 もちろんパーツ取りを拒否する家族の心情を考慮することや、「家族がパーツを有効活用させないので無為に死ぬ人間が増える」などという誹謗中傷が発生しないようにするといったこと、死生観の維持あるいは改変は、哲学屋さん、とりわけ「生を強く肯定する」哲学者さんたちの領分なのでそこには触れる気はない。


 しかし、「法的死」と「移植用パーツ取りの死」と併存させることは法秩序の統一性の面から問題があるように思われる(俺は違法相対論をとらないので)。
 たとえば結果的加重犯による脳死(よくいわれてる虐待、保護責任者遺棄致死傷に限らず、傷害致死傷や交通事故の業務上過失致死傷・危険運転致死傷等を含む)について、「家族がパーツ取り認めなかったので『生』です」「パーツ取りのためにトドメ刺すので『死』です」などということが曖昧になってもらっても困る。家族の意思によって量刑も民事賠償も激変では法秩序は一体どうなってしまうのだ、と。


 法の上では言葉の定義は単一であるべきだ。それが、感情論は別として俺がA案に対して抱く違和感である。