誰にとっての……

団塊のオッサンにとっての、「よき時代」=「三丁目の夕日
・末期的ヲッサンにとっての、「よき時代」=「スレイヤーズ」など面白さに貪欲だった90年代やそのリバイバルとしての「なのは」「ナイトウィザード
リア充になりきれなかったオッサンにとっての、理想化された「よき時代」=「マクロスF
……なんじゃないのかなとふと思った。俺は二番目。


マクロスフロンティアのどうしようもなさについて――こころ世代のテンノーゲーム
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20080702/p1

 ここを読んでから、『マクロスF』を熱心に布教してくる悪友をかわしつつ漠然と考えていたことでもあるけれど。


 まず『マクロスF』の1980年代的古くささは、「『マクロス』は船団内の創作物である」みたいな言説を補強する方向に働くとともに、『メガゾーン23』の1980年代固定世界を思い出させる。
 そして、その固定世界は、実のところ「インテリたるオタ」にとっての黄金時代だったのではなかろうかと考え始めた。


 第一世代の「オタクの遊戯」――ガンダムから発生した技術史、人類史の皮を被った表向きアカデミックに見える遊戯――に身を投じ、爆縮する方向に濃度を高めていった世代にとって、80年代は「既存要素を無為に消費し希釈してしまうような」第二世代以後的な「遊戯」が未だ無く、「オタクは無為に消費する者ではなく知的な何かを生産するプロトカルチャーである」と、オルグに明け暮れるセクトのごとく思いこむことができた最後の時代だったんじゃないのか、と思わずにいられない。
 宮台のエンコー売春言説なんてかすりもしないような男に都合のいいヒロインが溢れ、普遍的魂の叫びにも似た勧善懲悪ヒーローや臥薪嘗胆ヒロインを子どもっぽいとして鼻で笑い、中途半端な優越意識で武装し、宮崎というたった一人の男が起こした事件で地べたに叩き落とされるまでのわずかな時間こそ、『マクロス』『メガゾーン23』の時代そのものじゃないか。
 国家権力、主として教育機関を巻き込んだ、オタ(という「(PTA言うところの)好戦的な人種」)を殲滅するまで終わらない泥沼の戦争に、ぬけぬけと「彼らは叩くことしか知らない野蛮人です、文化を伝えてあげましょう」だのと、考えてみれば恐ろしい話である。そんな見方に凝り固まってたら地球に帰り着いたところで処分される。そのオリエンタリズムめいた思想を底流に引きずっている『マクロスF』が(このまま化けない限り)古くさいのも無理はない。
 そして、これらに共通しているのは「帰るところはない」ことだ。帰還を拒絶するADAM、自滅行為による浄化粛清がなければ帰れなかったであろうとして描いたTV版、はなから捨てられている7とF。


 けれど、「もし当時の初代スタッフが故意にこれをやったのだとしたら」と俺は思う*1
 初代のスタッフは、ガンダム、ヤマトを巡るオタシーンを、いったいどこまで冷たい目で見ていたのだろうか。7、Fのスタッフはこれに気づけたのだろうか。
 俺の主観だが、IIのスタッフは密かにこの怖さに感づいていたんじゃないかと思っている。文化・文明などというものはどのようにも運用されるのだと、「ウータ」によって示していたからである。
 プラスのシャロンはどうだろう?、と行きたいところだが、あいにく俺はMAD以外は概略しか知らないのでそっちはパスだ。



 既出な話だったらとりあえず笑うしかないな俺。

*1:マイトガイン」にはまり「影の王国」にはまったオタのひいき目であることは否定できない。