同じ匂いがして当たり前。

英米文学でいうところの「大人からのモラトリアムor抵抗」みたいな「狭義の少女小説」は必然的に闘争そのもので、「男に任せておいたらこの戦局どうにもならん」というか「私ならこう指揮を執る」といった視線があるように見えて仕方ない。労働環境改善を目指すペリーヌはその代表格だろう。それは、現在の人間が後知恵で「俺ならこうする」と展開する火葬戦記と同じ匂いだ*1。
http://d.hatena.ne.jp/Kadzuki/20080212#p1

 ……はっは、よく考えたら当たり前のことだったわ。
 結果に繋がる意思決定どころか現場に参画することができず、根本的に全く関係ないのに「責任(しかし法的な相当因果関係がないどころかそもそも当事者ですらない)」なる「誰かさん(経営者とか資本家とか特定アジアとか)に都合のいい」マジックワードでまったく理不尽な言いがかりと一方的な不利益だけを押しつけられる者達、すなわち近代女性と戦後世代の恨み節なんだもの。
 これは林や鷹見あたりの企業マネジメント論系火葬戦記も同じで、この場合はちょうど40代後半から50代でリストラ喰らった勤続30年くらいの一般社員や、就職氷河期世代による「放蕩経営陣」への恨み節となるわけで。