純愛、金満、倫理違反の終わらないワルツ
ピジョン・ブラッド 影の王国(1) (影の王国シリーズ) (コバルト文庫)
- 作者: 榎木洋子,羽原よしかづ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1997/03/01
- メディア: 文庫
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2セット目を揃え始めた。
「物語に動員される」なんてことをどっかの人は言っているわけだが、これに真っ向から「消費者はそこまでバカではない!」とやるのは野暮というもの。逆にそんな言説はは物語を消費する人間に対する「買いかぶり」というモノであって、ぶっちゃけ「消費者」はあんたらの考えるよりも「遙か斜め上にアホ」なのである。そのくせアホであるからしてその力(PowerではなくForce)は侮れない。
その典型的な例が、『時宗』の兄と、『新撰組』の山南の対比。幻想によって動員するつもりが見事にハズれた二例である。
前者は史実で死んだ兄を生かしておいて、狗HKお得意の日本批判に持ち込もうとしたが和泉フィーバーに押し負け。後者は新撰組、武士道というイデオロギー上も生かしておいては意味がない、史実では死人の山南に対する助命嘆願署名まで動き出す始末である。もう後者の時は開いた口がふさがらなかったさ。
だいたい、そんな極端な例を持ち出すまでもなく、バブル期の末路というヤツを見てみればいい。「動員」とやらに乗せてそのまま盲信させてしまうのが目的(こんなもん陰謀論でしかないのになw)のはずなのに、目先の利益であっさり転向するんだぞ連中は。もう少し突っ張ってくれないとそもそも「国家」や「体制」が動員するに値しない十把一絡げ烏合の衆でしかない。いくら力だけはあってもショゴスより悪質なモノを使う気にはなれないわな。煽りに「積極的に乗じて傍若無人まっしぐら」にやってきた連中が「たとえそれでも意味はあったんだ」じゃなくて「私たちは騙された」とやっぱり傍若無人にやってるのが「熟**婚」とかそういうやつじゃないの。あー、すげえ既視感があるよなあ、この構図。「笑える」やつだけ笑っとけ、な!w。
幻想を維持するためには死せる人見の巫女が必要である。しかし、死せる人見の巫女は「力」を盾にその幻想をも支配しようとする。*1
もちろん、この「幻想」は「コンテンツ」に限らない。「理念」「イデオロギー」の維持に必要な諸々の「力」を引き込んだがゆえに当の「理念」がねじ曲げられすり替えられおかしなモノになっている「歪んだ王国」は数知れず。
「そうだ。この王国になんの価値がある? ……だから滅ぼそう、この国を」*2