「落とす」と「壊す」

 陵辱ゲーは基本的に「落とす」か「壊す」だと思うのである。
 「落とす」というのは「抵抗していたヒロインが自分から求めるようになる」タイプのもの。「壊す」というのは「目のハイライトが消えて無反応になってしまう」タイプのもの。前者は最近の低価格エロゲなんかに多い、勝手にベラベラ実況中継するようなやつがその典型でしょうな。逆に後者はメビウスの「悪夢」「絶望」が典型、というかそれらしか無い。物理的に壊すたっちーは別枠なw。

 しかし「落とす」タイプの陵辱ゲーについて、私にはどうにも理解できない点がある。「落とす」陵辱ゲーの結末にあるのは、「陵辱者言うところの『本性』」の露出ではあるが、そのような「醜さ」ともとれるものを露出させることの何が「二次元世界において」有意義なのかさっぱり理解できない。私にとっては、「落とす」タイプの陵辱ゲーが露出させる「性への欲望」も、鬱ゲー等がえぐり出す「実利への欲望」も、同じものに見えるのである。しばしば二次元側から三次元拒絶言説の一面として「実利への欲望」が上がるにも拘わらず、同様の「醜い部分」をさらけ出させるゲームが多数派だというのは、幻想主義万歳の私からすれば非常に気に入らないし、どこか矛盾を感じる。


ガラスの像は静かに鑑賞するか、砕くかのみ。
「絵の具を掛けてしまえば、醜悪な泥人形に過ぎない」。


魚モンスターの目がぷりちーだというPOPに釣られて買ってきたエロゲなのに、魚モンスターが1シーンたりとも出てこなかった八つ当たりで何を書いているのやら。謀ったなメロンブックス京○店!(←所詮抜きゲに変なものを期待するな


各100円で買ってきた『狂い咲きヴァージンロード』と『魔法少女アイ2』のサントラが意外に良かった。短いのが難点だが。