ノンフィクション小説

たとえそれがフィクションでも実話として発表された場合、受け入れられる「捏造」と受け入れられない「捏造」がある。
当時の読者が「やむをえないこととして」好意的ではないにせよ否定的でなく受け入れられた「捏造」が、のちのメディアや洗脳の結果非常に不名誉で否定的なモノとなる場合も。

まあつまりはちょっと前の吉田版戦艦大和に関する裁判についてふと思ったこと。
たぶん出版当時はカッターに群がる漂流者切り捨てるのもそれなりに仕方ないと当事者に同情的な受容だったんだろうなと思う。それが世代が変わって洗脳されきった読者の時代には不名誉なことになってしまった。名誉を守るための裁判に至ったのは受け手の変化なのかなと。
冬月の艦長やマストに飛びついた少年兵もその真偽は未だハッキリしないが、俺は似たような部分だと思う。


作品の評価、人間の評価なんて時代が過ぎればがらりと変わる好例といえば好例。それを考えると手記やら日記やらなんてこれ以上に怪しいもんだと言うことにもなりかねない。

松前藩の、反乱主導者謀殺も「機転を利かせる英雄」としての「受け入れられる捏造」だという説があったっけ。まあいくら「受け入れられる」「(当時は)歓迎される」創作・捏造でも、記録にしてしまえばそれを逆手に取る人間がいるのは無理からぬこと。
記事や報告書は正確に、と。