内面。

内面を描写することがモノ化に繋がるのであれば、DOS時代陵辱ゲーの「名前」シリーズはその意味において正解だったのかもしれない。一方でどこまでも底の見えないヒロインが登場するADVは女性キャラの得体の知れなさそれ自体を道具立てにしている場合もあるわけで。


とはいえ、一人称はまだしも三人称の地の文で内面描写というのはどっかリスキーかなと思う。(小説よりもユーザ側主体性のあるゲームという媒体では)主観客観を曖昧にするような主語省略を多用する文体ではなおの事。
というのも、内面を描写するのは感情移入を思い切り強固にしてある程度ユーザをコントロールできる代わりに、シナリオしだいではユーザを壊すこともできるから。感情それ自体の感応によってのめりこむ代わりに、最悪の場合ヒロインに道連れにされる、というか早い話がシロッコに道連れにされるカミーユの末路を作り出せる。小説版アムロにとってのクスコ・アルも似たようなもんだっけか。
けれど内面の描写によってユーザと感情の回路を結ばない、あくまでも女性キャラ自身の口から言葉にして語らせる場合道連れにされるとこまでいかない。カテジナさんも音声によってその内面を表出させたが故にウッソを再起不能に出来なかった(カテジナさんなんかウッソを刺すシーンでの演技がNTの感応と連動していれば*1と思わずにはいられないw)。


ただ便利で、心地いいだけの「内面描写」はいつまで続けられる。イミラバの円香がなかなか面白かったが、シロッコクラスまでいったかと言われると微妙な気もする。

ユーザを壊すような愛*2を見てみたい。でも逆にとことん隠された、月島美夏みたいなのも好きだけど。

*1:半分アンオフィシャルだがV外伝の時点でNTは嘘をつけるのだから。

*2:沙耶唄のコピーだったっけか、「それは世界を侵す愛」。