中村文献吶喊中。

「近世的表現」「戯作論」……ともに近世文芸作品を対象とする文学論。
近世の文芸娯楽作品と、現代娯楽作品、なかでもサブカル・ヲタク系作品との相似性がつい目に付く。


近世娯楽作品が持っていた、儒学思想を筆頭とするある種の予定調和、基本テンプレート的な物語構造、読者が版本等によって共通基盤として持っている各種シーンのオマージュや引用……これらは従来各種ファンタジーが大量生産にあたって構築してきた基盤やテンプレートとかなりの部分が重なってくる。また予定調和の構造は定番とも言えるハッピーエンド、少女マンガの持つ「一途な少女」イデオロギー、はたまたエロゲの起承転えちぃ結とも通じる。私もまた大塚の主張に沿う形で一つの系譜として挙げていた「TRPG的」「ゲーム的」というのは、結局のところ「読者が一定のデータベースを持っているという背景の元」「予定調和を崩さないで凝るための方策としてのナラティブ」、あるいはそれに加えて科学的論点試案SFの雅俗転換……ではなかろうかという意識が私の中に生じてきた。


そして「雅」としてここに存在するもののひとつは、ハードSF、ハイファンタジーと分類される世界ピアズが「仮に」と前置きした上で分類する、SFを「可能性の文学」、ファンタジーを「不可能性の文学」とする構造は、SF作家の砦ともいえる対ファンタジー主張の一角(ル=グウィンが主張するSF正当化論もこの流れと考えていいだろう。)である。日本SFもこれを受け継ぐものである。これらのアレゴリーもまた、日本・輸入SFという一つの系譜である。


そして、「雅」のもう一つの系譜として上がってくるのが少女文学に他ならないと私は考えている。「テーマさえあれば悪文でも評価される」……つまりは「痛いか痛くないか」という「痛覚に訴えるパワー」を評価軸とする近代文学そのものの性格を持つ「少女文学」が、キャラクター小説もう一つのルーツとして揃う。

思えば、コバルト初期少女文学もまた、輸入少女小説と基本フォーマットを同じくしながらも、求められたのは当時の少女が共有していたもの……読者の持つデータではなかったか。数年前新装版が発売された丘ミキに付けられていた膨大な注釈こそ、読者側のデータ更新をする必要性ではなかったか。
つまり「近世的表現と近代小説の間」にいるのではないか、という疑念が出てきた。「予定調和」の内側にいた江戸近世文芸の読者と、高度成長〜バブル〜辛うじて終身雇用といった「迷いの(表面化し)ない」80年代ジュブナイル読者、そこに忍び込んだ近代文学的「テーマ」……。


……とまあ、そんなわけで立ち位置が、「児童文学→ポストモダン→文化現象→近世文学史」と見事にさまよえるヲタク人状態。
もっともこんな程度のことは文学畑の人なら既に掘り返しまくっていると思うのだが、そういう思考の果てに、学振申請書は未だ立ち位置不詳で宙に浮いている。怖くてメールも送れやしない。