電波男と「腐女子」・その1

電波男関係の巡回で見かけるのが、
・結局著者も特権階級にいる一部の人間でしかない。
・女性オタに関する考察が全くない。
というもの。

喪男の観点からいえば、
前者については小谷野敦という前例があるだけに同感と云うほか無い*1
後者については本田氏は「男性に対する値踏み」構造の中にあるという点、性的な面における「商品としての優位性」*2から同一視されているのではないかと思われる。



そこで私的に考察してみる「腐女子」である。もちろんこれは私の主観と独断、つまりは自称「ペルソナとして飼っている」私のサド腐女子嗜好による部分が大きいものなので、その辺はご容赦のほど。


耽溺の方向性が「主観」であるか「客観」であるかという大きな違いが存在することには昨日触れた。
ところが興味深いことにもう一つ、女性には三次元を二次元化出来るという回路が存在する。

とりあえず二次元はいいと思います。妄想ならなんでもできる!
でももっといえば、


三次元でも脳内で二次元化してしまえばOKだと思います。

続・怠惰な日常。さん3月15日)

ちょうど『電波男』レビューリンクに女性読者として捕捉されていた悠惟さんの意見だ。単純に考えればそれは確かにひとつの解決ではある。恋愛というものが所詮は対幻想でしかないものであり、家庭や育児という問題が横たわっていなければ「恋は盲目的理想化」と「二次元化」の差異などないのだから。OK、二次元化だ!……であるのだが。
ところがこの技能、大多数の男性オタクは修得し得ないという非常にシビアな現実が存在する。それはコミケにしてもショップ委託にしても実にナマモノジャンルが少ないことからも明白なのだ。
二次元化という技能は集約すれば生身の人物の美点を集約して理想化することによってキャラクターに「変換」する作業である。たとえば私の高校の後輩にF1ナマモノジャンルで「ミカラル」とか「ライミハ」*3とかあまり想像したくない単語をかっ飛ばしていた女性がいたが、彼女たちの「妄想」はあくまでもグリッドやピット、モータースポーツ雑誌のインタビューから「いいな」と思った、あるいは「こんな一面も?」といった要素の抜き出しを集約することであって、理想の存在として固めていくことではない。なぜなら理想の存在である必要がないから。ある程度の「ヒトゴト性」とでもいおうか、展開される妄想の当事者たり得ない「801」だからこそ、欠点も数多いであろう「生身の人間」を「二次元化する」ことができるのはないか、と私は考えている。当事者として妄想する女性オタの場合は正直私にも解らないが、少なくともオダギリジョーやペを二次元化して妄想している女性はあまり想定できない。どっかの車のCMのように三次元のままで妄想しているのではないだろうか。

一方でヒトゴトではない、当事者として二次元に特攻していく喪男オタの場合そうはいかない。彼らは二次元と現実の差異を完全に切り替えており、二次元である以上理想の存在であってくれてもいいじゃないかという理論からハードルを一気にブチ上げてしまう*4。既成のヒロインであればそのまま(電波男における川名みさき)で、それで物足りなければ属性を積み重ね、フォロー可能あるいは自らの嗜好に合う欠点だけを持った二次元ヒロインを「変換」ではなく「構築」から作り上げる(電波男における本田悠)のである。結果として生身の女性を二次元化することなどあり得ないし、現実に存在するが手の届かないものを二次元化して妄想するくらいならより理想に近いものを探した方がいいに決まっている*5。当事者としての二次元文化の浸透がわずかに女性より早かったのもあるが、男性オタはもう「変換」では妄想できなくなってしまっている。「二.五次元産業」にしても三次元の女性は「オリジナル」ではなく「写像」であり、「変換による二次元化」とは既に性格を異にしているというのが現状だ。


以上のような「技能の前提」を踏まえても、当事者としての妄想の姿勢は異なる。
通常、マスコミ的搾取構造の中での妄想に止まる女性、それを切り捨ててしまう妄想の男性とひとくくりにしてしまうのは問題であるが、第1段階として、まずはここまでで区切り、その2として「当事者としての二次元妄想に浸る女性」に論を引き継ぐこととする。

*1:ついでなので苦難を越えて勝ち組入りした某悪友にも釘を刺しておこう……くすくす。

*2:注:商品として見下す意図などはまったくないことを明記しておく。

*3:兄弟揃って受けキャラ化かよ救われねえな…。

*4:それもまた問題ではあるのだが……。

*5:二次元産業の蓄積はもはやそこまで来ている(笑)。あたかも「三十三間堂の観音さんを一人一人見ていくと必ず差がしている人の顔がある」ように。