恋愛と格下意識

 今日もやじうまNow Reading!さん(今後ともよろしくです)からネタを引っ張ってきてしまう怠惰な私。
 「好き」という感覚と、「保護・支配」が紙一重というか根幹というかであることはヲタならそれなりに自覚しているはずだと思う。エロゲ的な献身にしたって、たとえ一時的なものであっても自己の完全なる保護下といえないこともないわけで。

こんな風に、好感に分類される感情というのは大抵の場合下のレベルに対して感じることが多い、というのは頭に入れておくと役に立ちます。
もちろん、格上の対象に対して好意的な感情を持つ事もありますが、こういうのは大概「憧れ」と言いまして、「好き」というのとはちょっと違うと感じるわけですよね(なんか少女マンガみたいだな)。

この「好き」というのは弱いものに対して抱くものだ、というのが恋愛を理解したり、性犯罪を理解したりする助けになるわけです。真にスィートな関係というのは、対等な関係よりも、互いに「相手を守ってあげている」と思い込んでいる関係なんですねぇ。「まったく私の彼はだらしなくて」みたいなのはノロケですし。

 この視角は恋愛というものを外野(決して悪い意味ではなく)から見る上で実に笑えない現実でもある。

 藤本由香里が『私の居場所はどこにあるの』で「激しい愛」と称するものも、保護のために自己を犠牲にするというだけのことであり、愛なるものは強くなればなるほどその保護・支配の自己強制力は強くなる。フェミニズム的に許容される愛でさえこの構図からは脱却できないのだ。いわゆるカッコ書きの「フェミニズム」、俗にフェミファシズムフェミナチとよばれるものが「マッチョリズム」を完全に排除できないばかりかそれに乗ってしまうのもこういった構造を捨てられないからに他ならない。彼らの否定したがる「格下意識」にしても「市場化」にしても、自由恋愛を肯定している限り絶対に否定できない存在なのである

 ここまでの話を逆に言えば、相手に「好き」という感情を抱かせるためには「格下意識」を刺激するということに結びつく。エロゲでおなじみの家事的・性的献身はもちろん、「少女漫画の一大妄想大系」(藤本前掲)である「一途な愛」もまた、同じ延長線上に存在する(少女漫画では恋愛対象を完璧にしすぎるせいか「憧れ」との境界は非常に曖昧だけれど)。エロゲ系電波ソングに限らず一般のラブソングの大半も同様だ。
 しかしこれを肯定的に描かない限り、女性の支持は得られないことは言うまでもない。故に「格下意識を刺激する」行為をある種の能動的トラップとして扱い、トラップにかかった(「格下意識」を刺激された)側を敗者として位置づけ、意識の内側で格下に置かれた側(その多くは女性)を勝者として上位におく装置が形成される。いわゆる決闘的恋愛観・ゲーム的恋愛観がそれだ。
 理性(政府中枢)・感情(軍組織)・肉欲(市街地)、いずれを陥落させるかの全面焦土作戦(市街地爆撃はリスクが大きいからできればやめておけ)の世界だ!

 失礼、ちょっと地が出た。

 しかし、いかなる構造を形成しても、ゲームであれ決闘であれ、本来的には「勝てる相手としかやらない」ものであるという不文律に則れば、恋愛観そのものが格下意識から形成されていることを否定など出来はしない。
 格下だと考えるからこそ全面攻勢を行う。格上だと思うからこそ陽動と誘致しかるのち各個撃破を行う。格上どころか相手にもならない難攻不落と考えればいずれ敵になることが確実な周辺部隊とも共闘し絶対防御圏内から引きずり出す(当然その後周辺部隊をいかなる手段を用いてでも潰すことを躊躇ってはいけない)。

 ホント戦場は地獄だぜフフゥーハハァーーー!!(AA略

 ……こういうこと言ってるからエロゲヲタ周辺でも引かれるんだと自覚しろ私。