さたにっく・ばーしーず

 今日の応用講読演習はイスラム方面で話題になった「あの本」。
 一応読む上で背景押さえておく必要があるとは思うんだがそれとは別に、演習でのテキスト提示者から、「事件との関連や宗教批判として読んでほしくない」と言われてもそりゃ無理だと私は思う。
 たしかに「あの本」は古橋『ケイオスヘキサ三部作』的な宗教パロディにあふれた物語ではある。しかし提示者が完全に見落としているのは「パロディは元ネタが解る人間にしか面白いともくだらないとも判らない」という大前提に他ならない。私とて手元に『真・女神転生 覚醒編』があったから気づいた「見立て」があるわけで、そういった前提知識なしに「パロディとして」読むことは不可能なのだ。
 ましてやそこに共通認識として下敷きとするものがあればなおさらである(この辺は東のデータベース消費とも関連するが……)。作中の全ての要素において共通認識から引き出される「意味づけ」や「宿命」を把握せずして、作中の要素の関係を読み解くことなど不可能に近い。予備知識皆無で『トップをねらえ』『快傑ズバット』をそれまでのヲタ文化やヒーロー像の「パロディとして」見ることは可能だろうか。せいぜい「話の筋」をコード化するのが限界だ。

 とはいえ、来週までに再読し自分の研究と引きつけろと言われるなら、『ケイオスヘキサ三部作』が入手不能である以上なにか別のネタを考えなければならない。

 そこでこれと類似したと私が考えるものに『クトゥルーの呼び声』に始まるHPLを筆頭とした一連の「クトゥルー神話」がある。
 読者と作者は同じ「神話観」(とはいえHPL原理主義者とダーレス許容派の対立には越えられない溝がある)を持ち、究極的には同じ救い「旧神」を信じる(HPL原理主義者除く)。この前提があるからクトゥルーというジャンルはいかなるパロディでも、その「旧支配者の復活」という構造に乗っている限りは許容されてしまう。
 しかしその中で旧支配者や信奉者をものすごく卑小で猥雑な存在に書いて、あっさり主人公が蹴散らしたとしたら……焚書にこそならないけどそっち系のコミュニティには戻れないね、きっと。
 いかんせんイスラムほどの強制力が(たぶん)ないが。

 そういえば「国勢調査の『宗派』に『ジェダイ』と書いて、ジェダイ教を国内宗教勢力にしよう」なんて『スターウォーズ』ファンの活動があったが……あれどうなったんだろ。

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