耐性ゆえの無感動(文体限定)。

 図書館に『トランス・アトランティック』が届いた。S先生絶賛の「訳」であり、おそらく論文主査となるN教授の著作として読んでおく必要性を感じ、同時にぶっとんだ文体のポーランド文学がどのように訳され、表現されるのかにも興味があったからまず図書館のお世話になったわけだが……予想以上に興味深く、予想以上につまらない。

 まず「訳者あとがき」を一読。続いて本文にかかる。

 文体、慣用表現とその新規創造的行為に関してはまったくヒトゴトでない領域を往こうとしている私にとって、実のところなじみ深いものであった。ゆえに、N教授の翻訳と言葉の問題も、「言い訳が必要なもの」とは思わなかった。裏を返せば「訳者あとがき」が無ければ翻訳と言葉に対するこだわりはまったく表面化しなかったのだ。
 いうまでもなく「領域」とは日本語の「可塑性」を極めて強引かつ芸術的な形で体現することがもはや「基本技能」となりつつあるライトノベルという領域のことである。いや、ライトノベルと言うよりは「ゲーム世代テキスト」と言うべきだろうか。「視覚効果を重視した文面作り」(p.289)を最も多用する小説群のことである。フィクションを模倣すること、小ネタを差し挟むことが多いことから、伏せ字についても慣れたものだった。また『殻の中の小鳥』を小説上の基本スタイルとして持っている私にとって、主語省略や文末のとぎれといった構成自体は、リズム上・場面展開上の不快感は多少あるにせよ、文章そのものを「ひどい」日本語と感じることはなかった。繰り返し表現や感嘆においてブンガクでは珍しいタイプの表記が使われている……文学者視点ではこのあたりが「むごい」に相当するのかもしれない。しかしあいにく私のような現役ヲタクにとっては、このレベルの奇異な表現は何一つ珍しくない。

 文学に限らず、言語を扱う上で「新規創造」される言葉は少なくない。言葉に限らず、ハンドル(アーバンネーム、二つ名)を含む人名創造、感嘆詞の使い方とその反復、視角利用と音律の統一(ゲームであればここに時間的配置と視角を利用した読者内部での黙唱が加わる。甲田学人『Missing』ではFAXを利用して文章化された魔術儀式をなぞらせるという展開があるがこれとも近い)。これらは文学史上よくある事実に過ぎない。しかし「フィクションを模倣する」という構造の中では、これら新規物は即座に慣用表現へと転化する。
 独自表現を得ないことにはインパクトを得られない(たとえばソノラマ文庫では、笹本祐一の影響により場面転換技術の要求がものすごく高い)。結果、慣用表現のように先人の表現を(新規に見せるように)使い、独自の方向性を模索する。古橋秀之以後、『月姫』以後の若年向け作品とその拡大におけるそれぞれの文体変化の波は「むごい」日本語への志向を決定的なものにしてしまった。

 amazonでの『トランス・アトランティック』のカスタマーレビューがあっさり言葉の問題を流してしまっているのもその結果だろう。軽い、正当派でない小説を読み慣れた目には、この翻訳が重大事とした「文体」「表現」「言葉の問題」はなんらインパクトあるモノではないのだ。
 とはいえ、私は『トランス・アトランティック』を結構面白いと思って読んでいる。N教授の仕事を否定するわけでも、ゴンブローヴィッチの仕事を否定するわけでもない。感覚としては成田や古橋を読む感覚だろうか(笑)。


 さて、ここからは私事になるのだが、私はN教授が学部で持っている「文芸方法論」に潜伏し、履修条件である「作品提出」を行っている。(以下省略にしておく)
 私は「作品」において、4つの実験を行った。
 話自体は3時間で「竹取+東方永夜抄5面」からでっち上げた「屋敷防衛戦」である。
 第一は私が小説創作上でひとつの至上命題として実験を続けている「速度」であり、第二は小説を書いてみようと考える学生の層を測るため「小ネタ」がどこまで通用するかというもの。そして、第三が既成表現の儀礼的・慣用句的「挿入」であり、第四が既成表現を如何に誤魔化して「新規に見せる」かということであった。
 平たくいってしまうと、「ああ、なんて、〜」を意識的に使ったことと、「ひとつひとつが殺傷力十分な存在が集合として美しく見える」というありがちすぎる感嘆(原典は対空砲火か焼夷弾投下だったと思う)を導入したことだ。年明け後の講義に、学生からの反応が取り上げられるはずだが……さて、この意図にどこまでノってきてくれるものか。「パクリ」のひとことで片づけられそうな気がしなくもないけど。

 ……とはいえ、「隊列を組んではしたない歌を合唱」しながら「通行人の首を刎ねつつ爆走するウサギ集団」とか、「蒼ざめた月の光」とか、「朱」をアカと読むこととか、「食いついてこられても困る小ネタ」に食いついてくる学生が居たら居たでイヤなのだが(笑)。