『物語消滅論』…物語が社会を動かし始めた

 物語に描かれたロマンや、小説のパターンとして完成されたフォーマットが社会を動かすことがあることは、私とて認めるのにやぶさかではない。『大航海』の小谷野のファンタジー君主制の関係についても、ある種のノスタルジックが発現した形の一例としてそれなりに理解もできる。

 しかし私は、それを声高に主張する著者の態度に違和感を禁じ得ない。物語にイデオロギーを持ち込み、物語に社会を動かす力を与えようとしたのはそもそも大塚世代の作家たちではないのか、ということである。サブカルに転化させるという手法それ自体はいいとして、必然性のない展開に持っていくこと、それをイデオロギーの作用といわずしてなんといえばいいのか。しかも彼らが書いていたのはジュブナイルでありライトノベルである。
 50年代から60年代前半生まれのファンタジー作家を概観してみればいい。結城恭介が『ヴァージンナイト・オルレアン』でやったように「最後は脈絡無く目指せ共和制」に転げ落ちる作品がいくつあることか。田中芳樹銀河英雄伝説』に思想的影響を受けたサヨクがどれだけいることか。富野由悠季が『機動戦士ガンダム』以下一連のシリーズや『オーラバトラー戦記』で描いた支配者像・民族像は如何なるものであったか。逆の方向性では冴木忍『メルヴィ&カシム』の3巻「いかなる星の下に」も強烈だった。身分制に疑問を持ち平等な社会を夢見た貴族の娘が革命が起こるや否や輪姦の後に顔を焼かれるという「革命」=「暴力」観が炸裂していた(同時期のコミック『キャプテンキッド』のハリー・ライムもまた、革命によって両親を殺されたキャラとして過去を明らかにしている)。


 そして現在。
 彼らライトノベル黎明期世代が開拓した日本製SF、ファンタジー安田均水野良友野詳らの手によってデータベース化され、思想やイデオロギーさえ「登場人物を裏付けるパーツのひとつ」として構成され、また高学歴化によって作家志望者がそれらのパーツを安易に振り回すことが、特にライトノベルの世界で可能になってしまった。それはある意味において、東が言うところの「大きな物語」がキャラクターという存在を介して「復権」しつつあるのではないか、という感覚を私に抱かせる。戦後、学生闘争後、サブカルチャーに転化したイデオロギーが、サブカルやキャラクターから「再翻訳」することができ、またそれを再検討し受け入れる読者の発生・増加によって、再び像を結び始めたのではないかと。
 ストレートに政治問題をぶつけてきたものでは藤原征矢『クールフェイス』(ソノラマ文庫)がある。革命クーデターを起こしたところで賤民にせよ女性にせよ地位は何一つ変わらないという現実を突きつけ、最後は投げてしまった。3巻あたりから怪しくなってきたのを承知で全巻リアルタイムで買った俺の忍耐を返せ。


 まあそんな重い話は読んでいて面白い一方でものすごく疲れるし、時には壁に投げつけたくなるほどいい加減なものも多い。その結果我々は単純に「萌へ〜」などと言っていられる作品にも手を出す。もちろん、そういった作品にはたいていジェンダーなどの面で問題意識を持たなくてはならないものもあるのだろうが、正直そういう「頭の悪い」(作者が自虐的に使う場合に限定)作品を読んでいる間はそういうことを考えたくないものである。わはは。