アリサイタダイタヨ

 犯人のメールに『螺旋回廊2』思い出したエロゲヲタはかなりの数いると見た。

 先日の奈良の事件以来、案の定ヲタへの風当たりが酷い、というよりは恣意的で「悪い」、といったところだろうか。
 その中でひとつ気になった記述があった。Make New Community?さんの(毎度毎度ネタにして申し訳ない)ところで見たコメントである。

オタクにロリコンが多いのは、
現実での恋愛経験がないからだと思います。

 排除派、マスゴミの常套句であっていつもの私なら鼻で笑う類のものなんだが、果たして実際そうなのかと疑いを持たざるを得ない。
 この手合いの主張は、『「恋愛してないから女性観がその時点で止まっている」からその年頃にしか興味が持てない』と続くのだが、私には到底そうは思えない。いっそ従来から繰り返されてきた「支配欲」的な主張、ひいては「家父長制的思想」の歪んだ発現と見た方が妥当な気がしてならないのである。

 ヲタクというのは良くも悪くも幻想的すぎる人間である。軍ヲタみたいなリアリストでさえ、夢を食っている。当然それは恋愛観にしてもかなりの部分で影響していることは言うまでもない。私のようにヲタク人生の内側に池野恋柊あおいが含まれている人間でなくとも、多くのヲタクにとっては(自覚しているかどうかは別として)恋愛とは劇的なものであり、一生に一度の決断でなければならない、という感覚を内在しているのである。この点において、夢見る少女もあまり変わらないわけだ。
 しかしそこに旧来の貞淑観が介在してしまうのか、それともその介在無しでヲタクがその結論に至るのかは不明だが、ヲタクの女性観はかなりの部分で「おとなしくて清楚で純粋で化粧で飾りもせず」という希望が発生してしまう。身も蓋もなく言えば「処女性」を要求するのである。これに貞淑観だの支配欲だの前の男に対するコンプレックスだのといったフェミニズム的あるいはマスゴミ的分析に加えてもう一つ身内的な分析を加えてみると、やはり「恋愛に対する幻想」の影響が大きいのである。
 こういったヲタクにとって(幻想・あるいは機会の希少さ故に)恋愛とは一生に一度、人生の全てを賭けるものである以上、相手に対しても相応の「賭け金」を要求するというこの一点だ。「自分が人生全てこの女性に張った」だけの覚悟を、相手に対して求める……すなわち、相手にもそれだけの覚悟を持ってほしい、逆に言えばそれだけの覚悟を持って選ばれた男であると自覚したいというものである。困ったことに女性は「覚悟(と男どもが見るもの)」が物理的に可視化される身体的構造(まあ要するにアレのことだ)を持っているだけに、男側の要求だけが目立ってしまうわけだが、女性とて「年上のメイドに弄ばれいろいろ仕込まれた『白馬の王子』はイヤだ」というのと何ら変わりはない。
 さて、激しく脱線した。
 こういった「恋愛観」に対して現実を振り返ると……まあそういうことである。ケバキモい茶髪厚化粧の大学生高校生、低年齢化し中学生まで巻き込んでいく芸能界、マスゴミ調査による「経験済み率」の数字。そういう現状にある「現実」に対してある意味純粋すぎる恋愛観の持ち主が生存できるかと言えば答えは否である。結果、目線はさらに低い方に流れることになんの不思議があるのか、と。目線を下へ誘導したことについてマスゴミに責任がないとは口が裂けても言えないのである。
 結果として、純粋すぎる恋愛観の持ち主であるヲタクは、ロリコンに走るか、完璧に三次元と訣別するかしかない。年齢とともに折り合いを付けてやっていくヲタクが大多数である中で、異端がたどる道はそういうところなのである。

 なお、私は倫理学屋でも心理学屋でも志願者ではあるが社会学屋でもないが、法学部出身で不真性刑法屋である以上犯罪を正当化するつもりは全くない。「中途半端に三次元に未練残すからこんな末路をたどるんだよバーッカ」と罵りたいのは山々だが、罵倒はポリどもの、処罰は司法の管轄である。