最強であること自体は問題ではない。

 ……というのが俺の感覚ですな。
 最強の能力を、何のために使うか、使うにあたり自分が「強者」である自覚はあるか、つまり能力に見合った人格を持つ主人公かどうか、といったところに目が向くのが、無茶ぶりのようでいて、一般的な読者だと思うので。

 チートといわれる主人公の中でも毀誉褒貶の激しいキャラの一人の話をすると、こいつの問題点は、自分が強者であることになんら無自覚で、強者であるが故に自分が踏みつけている足元や、踏みつけられている足元の住人が拠って立つ環境そのものが見えていなかったということに尽きる。足元を重視する敵役の声がまったく届かない暴君でしかない。そして、その敵役もまた、足元にこだわること自体は至極まともでありながら、まともに向き合われず感情論だと切って捨てられてしまう*1
 悪役ならそれでいいかもしれない。むしろ資本家として同様に自由競争を要求しながらも「不正行為」を全否定する男の方がよほど筋が通っていてまともだし、弱肉強食世界のそのものの犠牲者たるクローンもしかりである。
 なんというか、ラノベ読者ってのは「よいこ」「おりこうさん」なんだなあと思う次第。ジュニアやジュヴナイルSFの教条性未だ健在なり、ということろか。


 なんで俺がそんなことを言うのかというと、麻生俊平信者だから、ということになるのだろうな。麻生作品は「力を行使すること」に対して異常なまでに自制を要求していた。『ザンヤルマの剣士』において、「あの窓の明かりには、今にも自殺しようとしている人がいるかもしれない。ならば全ての窓を開けるのが力を持つものの義務だ」と主張する佐波木を遼は否定する。
 彼は確かに最強のアイテムを持っている。けれど、それを使うことに重い葛藤を抱えている。自分がそのアイテムを捨てられないのに人には手放せと言わざるを得ない矛盾に悩まされる。これをいかに乗り越えるか、その葛藤がドラマの主軸となっていた。続く『ミュートスノート戦記』ではさらに踏み込もうとして、不完全燃焼に終わった感がある*2


 児童作家川北亮二曰く、読み物にはエンターテインメント小説とアミューズメント小説があるという。その違いは、葛藤というドラマ性の有無。「何の痛痒もなく、淡々と邪魔者を排除していくだけ」の作品は、ストレス解消にはいいのかもしれない。しかし、果たして読者に何かを残すことはできるのだろうか、という疑問は残る。まあ、とりとめなく書いてきたが、それらを楽しんでいる読者には野暮な話だし、俺には読者を貶す意図はない。



 ……まあ俺なんかあれは「妹が一向に病まないし泥棒猫狩りもしないので三巻で投げました」なんだけどな(何。

*1:高山版にもこの点は不満なんだよなー。彼自身は救われたかもしれないが到来するのはヒャッハーな弱肉強食世界だぜ?

*2:物語としてはあれで一段落はしているのだが、盛り上がりに欠けたことは否めない。