Twitterサルベージメモ。

「教育上よろしい」文学ばかりが称揚されることの「恐ろしさ」をわかっていないやつが多すぎる。いや、正確にはその「恐ろしさ」を『パラノイア』『1984』的な、独裁支配的意味だとしか捉えられないことの方が「恐ろしい」のだ。


歴史上「教育的によろしい文学」を徹底的に持ち上げ、「そうではない文学」を退廃的であると徹底的に排除した国がどうなったか。「教育上よろしい文学」を心の底からすばらしいものと信じ、そこに書かれた生き方を実践しようとする青少年ばかりになったらどうなるか。それを想像してみるといい。


その先に待っているのは「抑圧的な、一方的な独裁」ではなく、「無垢な青少年を筆頭とする国民が大歓迎する『英雄』による支配」ではないのかね?


たしかに行き着く先は弾圧と粛正の巷だが、抵抗する相手としてどちらが危険なモンスターかという点では両者は大きく異なると思うのだ。


というわけであえて言おう。「風が吹けば桶屋が儲かる」的意味で、「エロマンガを規制すると2.26が起きる」と。

俺は和音とか伴奏とかそういうのはさっぱりなのでミクやボカロやDTMを適切に使えない。が、歌という媒体を発表する際において大きな障害となる「声」や「歌唱力」を代替する、一種の「サイボーグ」的ツールとして見ればその意義はけして小さくはない。


おそらく問題は、日本において読み上げや歌唱というサイボーグツールを文化面で使う発想がろくになかったことではないかと思うのである。福祉面での意思疎通ツールとしか頭になかったんじゃないのかと。


同じように「意思を阻害する物を越える」ツールなのに、キャラという媒体を介してしか「発表するための障害」を越えるために使う発想が出てこなかったことに恐怖しないでもない。


ツールの補助で極限を目指す発想がないのかね。どんなツールを使っても「最低限できる」ことを目的にしてしまう。そこから上は努力神話に回収される。


「マイナスからゼロじゃなく一気にプラスへ突っ走るツール」は幾多のヒエラルキーや優越感を粉砕する。そりゃ「最初からプラスにいる人間」「プラスにいることで優越感持ってる人間」の大多数は気に入らないだろうさ。でもそこまでやらなきゃ面白くないと思う。


もっとも、「マイナスやゼロから極限!」のレベルまでいってしまうと「誰がやっても同じ物ができる」という危険と背中合わせとなる。難しいよね、いろいろと。

「一部の犯罪による全部の排除」を攻撃する人たちは当然「一部の痴漢による全男性の排除」たる女性専用車も攻撃するんだろうな?w


外国人犯罪も米兵犯罪も痴漢も俺から見れば全部「一部犯罪による全部の排除」の理由という点で同義である。

ケンパー「男の尊厳か…そんなの持ってると… 重くて…疲れる…ぜ…」(『エリア88』)   好きこのんで持ってるやつばかりだと思ってるバカどもをなんとかしてもらいたいもんだぜ。

女学校ものってのはある意味では蘊蓄や衒学趣味を競う部分があって、それを上手く隠蔽する機構でもあるのではないかと思う。


主要人物に一人は詩や歴史にやたら詳しいのがいて、引用するシーンが嫌みではなくたしなみとして登場する。


だがしかしそんな俺の思いつきを「知っているのか雷電!」でぶち壊しに来るもう一人の俺がいる。