「今の読者には共感を得られない」

二年二組の勇者たち―自選青春小説〈9〉 (集英社文庫)

二年二組の勇者たち―自選青春小説〈9〉 (集英社文庫)

 らきすた70年代末ヤンキー版、というとしっくりくるかも知れない。
 札沼線石狩月形駅にコバルト版が置いてあったのを思い出す。


 解説で堀田あけみが知子について「今の少女の共感は得られない」と書いているが、詰まるところそれが富島や上野や南の淘汰の原因だろう。作品のキーパーソンである彼女ほどフリーダムにいられる/いることを望む少女なんて、金の卵世代やバブル直前期ならいざ知らず、文庫版刊行当時に活字読んでる層じゃ稀少種もいいところなのである。だから市場のメインストリームは依存寄りの展開から抜け出すことが出来ないし、自由や独立を描いて外れようとすると打ち切られる。海外で『楽園の魔女たち』の翻訳刊行が4巻以降為されずに二年放置されているのもそういうことだ。(関係ないがこの点では破妖の再開は実は割と楽しみだったりする。)
 結局、コバルトは自由よりも閉鎖空間(「地方」という領域もここに含まれる)と、無視されるが故の自由(ジャパネスクを筆頭とする過去史ファンタジー、女性に完全な法的能力が認められていない時代)を選んでしまった。
 また、フリーダムではなく枠内での幻想・神話に縋ると、最終的には「死せる人見の巫女」になるか「キェーーー!」するかしか無い。てかいわゆる「ヤンデレ」を突き詰めると「キェーーー!」だし、それを愛する人々も「キェーーー!」なロスジェネと通じるものがある。まして、その枠から外れることを怖れてきた「フェアリースノウの狩人」な元少年たちならばなおのこと。
 あの時代に少女文化の行き着く先として『天人唐草』を挙げている米やんって偉大だと思う。


 突き詰めれば「非マッチョ・ヒキコモリの文学」だということを、マッチョの老害評論家に抵抗しつつも正面から認めていかねばならない気がする今日この頃。もっともその為にはヒステリックな「男性は常に強者であり悪である」という論者を踏み越える必要がある気もするが。盗んだバイクで走り出しても自由にはなれなかったんだよやつらは。