自由の「質」

最初から無視されていることによる「自由」
 と
選択肢が元から無い・少ないことによる「自由」
 と
切断する・立て籠もることによる「自由」
 と
異能・職能によって担保される「自由」


 「マリ見て」の人気は4の自由が全盛(つか飽きた)の時代に3の自由をぶつけたことだと思う。いうまでもなく俺偏見。
 2の自由は70-80年代に少し出てきたが、一部を除いてお利口なベクトルを与えられて矯正されてしまった。つまらん*1。もちろんこの自由の多くは「自由になれなかった by 15の夜」という結末ばかりだ。しかし不思議なことにこの「選択肢のなさ」は底辺校や問題児クラス(『二年二組の勇者たち』とか)では不道徳として潰されるのに、場がドイナカや孤島に移った途端なぜか称揚される。気持ち悪いったらありゃしない。てめーのことだk(弁士警告!)、h(弁士中止!)。


 ところで、1の自由はもっと格差が広がった頃に出てくると思う。『機関車トーマス』の実にフリーダムだが壊れても沈んでも顧みられない貨車なんかが筆頭格だろう。あるいは少女の自由の点で称揚されてきた『なんて素敵にジャパネスク』とか。あれなんて「御味噌」だから「放置されている」だけじゃないか。

*1:最近だと某ヤンキー野球漫画なんかが該当するが実につまらん。