両者の断絶

 『日本児童文学 5/6月号』より。
 「ラノベ読者=論者と児童文学読者=論者との間にコミュニケーションが結ばれていない」「ラノベ自体が批評を拒絶しているように思える」との、メディアミックス時代の批評に関する記事の一節(うろ覚え)。自分も該当するので自戒を込めてメモ。今秋はがんばろう。


 前者については、アカデミック領域への踏み込み「方」の問題にも見える。
 東、大塚あたりを起点に踏み込んできたら爆死、みたいな。先行研究が少ない、手が届きにくい*1せいか、どうしても入手が容易なサブカルか、文化論か、ファンタジー論に寄ってしまう。だから正面から当たることが難しい。もちろん力量不足といえばそれまでだが。
 一方、児童文学プロパーには一種の理想主義や政治性を批判的に見ることへの違和感があるように思える。オタクも児童も文化論的な面からは「近い」一方で、オタク側の持つ「教育に対する強力な不信」と、児童文学プロパーが持つ「一定の教育的方向性」が引き起こしている摩擦が沈静化するまではもう少しかかるように思う。どっちもある程度理想主義*2であるための近親憎悪かも。


 後者は教科書的な回答を拒絶するところから始まったラノベというジャンルに必然の経緯であるとも見えるが、それ以上に市場原理と共同性のたちの悪さが見えるように思える。少女小説にそれが顕著なように見えるのは俺が男だからだろうか。



 それはそれとして、ふらっと寄った本屋で古本セールをやっていた。南英男がコバルトで書いていたこととか、井上祐美子がいちご文庫で書いていたとか、まあいろいろとびっくりだ。

*1:特に男性は、「古めの児童文学文献を、所属大学図書館は持っておらず、NACSISで検索したら所蔵館が軒並み女子大」という経験をしたことがあると思う。

*2:戦前少女雑誌がお互いの理想を掲げ衝突したのにも似ている。