SF的装飾過剰も擬音依存も

 いろいろと話題のアレ、ちょっとパラ見してきた。


 SF的装飾過剰も擬音依存も、いずれにせよ読み手に映像的知識と想像力を要求し、それを持たない読者には上滑りするだけの文章であることに何ら変わりはない。スカスカの文章だろうとびっしり埋まった文字だろうと。
 以前の研究会から、ちょっと着眼点の変わった今日この頃。

 小説には予算の制約もうるさいスポンサーもありません。巨大ロボットを新宿の高層ビル街で暴れ回らせようが、衛星軌道までロケーションに行こうが、自由自在です。
 そのかわり、天下の美少女も凝りまくりのコンピュータグラフィックも使えません。画面と音もありません。使えるのは、言葉だけ。


  ――笹本祐一『ラスト・レター』新装版(ソノラマ文庫 1995)より 「最後の、あとがき」p.291

 新・新装版出ないかなあ……。


 ダークヒーローと側近4名と視界を埋め尽くすマッチョメンのエキストラとデブ2名と作者を2ページで表現したり、三匹の象に追われて逃げまどう群衆をメッセージ窓1枚で表現したり、というのはまた別の話。