彼らは自分の書物を持てたのか?

 砂田弘は、生前の著書で少女小説について「日本の女性は彼女たち自身の書物を持つことができなかった」と述べている。しかし、その反面、戦後少年は「彼ら自身の書物を持つことができたのか?」とあえて問いたい。
 子どもの間は「良書」を押しつけられ、卒業したら「大人が読むべき物」だけを押しつけられる。くだらない「成功者のたわ言」でさえ読んでいないだけで正当に扱われない。卒業以前、思春期の少年に向けて書かれたものはマンガか「悪書」くらいで、「隠れて読む」形でしかエンターテインメントに飢えた少年の受け皿はなかった。NHKドラマの原作群が現れるまで。いや、その後もがんじがらめに縛られた少年たちは、リブだのジェンフリだのフェミだのによって聖域化された「少女小説」に遊ぶこともできず「面白い文学」を持つことができなかった。活字離れも当然の話である。なぜなら面白くないものだけを押しつけられてきたのだから。家に持って帰ることができない、学校で隠れて読むマンガだけが「面白いもの」だった時代がある。
 一方、小遣いに乏しい少年たちが、親を口説いて堂々と買えた「エンターテインメント小説」……それが歴史小説や神話小説ではなかったか。


 たしかに吉川の『三国志』は面白い。たしかに山岡の『徳川家康』は面白い。KOEIの功績も無視できない。またホメロスギリシア神話に対する愛情も、マンガながらも車田の功績が無視できないだろう。


 しかし、日本男性の戦国及び三国志ギリシア神話に関する「情熱」の淵源を面白さ「だけ」に求めてしまっていいのか。中国人男性すら凌駕する「情熱」、自国の神話よりも豊富な知識を貪る「情熱」に、行き場も受け皿も理解者も共感者もなく、極端な落差をオートメーションのように放り出された少年の悲哀を感じてしまう。
 それは、小学校卒業とともに宅和先生*1やかおる先生*2、ウルフ探偵やネコカブリ小学校校長先生の元を去ったはいいが、あっさり路頭に迷って胡椒ピストルの大泥棒や転生した提督の下を経て冒険者ギルドに辿り着いた元少年であるがゆえの感傷なのだろうか。


 悪天候の海にこぎ出すこともできず、船を造ることだけに没頭することが必ずしもいいとは思わない。けれど、教会に墜落しない帆を張った船がどこかにあるはずだ。今は足を引きずって歩くことしかできなくても、船を造ることは確かに面白い。

*1:ズッコケ三人組の担任

*2:いたずら天才クラブの担任