しゃれにならない予言者
やっぱ麻生俊平って恐いなあとつくづく思う。
シリーズ完結から、携帯電話やノートPCの指紋認証による個人専用化まで10年かかってないんだよな。
で、『モノクロームの残映』読んでると、ベーシック・インカム論ってのは、労働という行為どころか、労働環境などで必要とされる人的交流能力、いわゆるコミュニケーション能力に関する悪戦苦闘をも不必要にしてしまう(逆に言えば、こと最小限の生活、ベーシック・インカムの範囲における生活に限定する限り、コミュニケーションに関わるパラメータに起因するもろもろの差別区別を一時的に消却する)ということに気づかされる。
ベーシック・インカム論者がそこ――コミュニケーションの潰滅――まで考えているかは別として、ベーシック・インカム論の最大の問題は政治経済や労働の次元を越えたところにあるように思われる。
働く(労働者としてではなく)、生産する、価値を創出することにかけては無駄に積極的でドMド変態がやたら多い日本人のことだから、大半は引きこもらないにしても、このへんの問題はけっこう危ない気がするんだよな。
モノクロームの残映―ザンヤルマの剣士 (富士見ファンタジア文庫)
- 作者: 麻生俊平,弘司
- 出版社/メーカー: 富士見書房
- 発売日: 1997/01
- メディア: 文庫
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「自分にしか使えないありとあらゆる道具に囲まれていながら、イェマドの人間が何を求めていたか。思考に応えて自在に形態変化するコンパニオンや、自分の中に秘められた別の人格を発生させる装置。そうまでして愛情のはけ口や他者との関係を求めていながら、それは実際の他人、自分と異なる人間との関係を求めてはいない。イェマドの道具に、他者とのコミュニケートのための道具があったか、カロ・ウラージェロ」
パソコン・ゲームの育成シミュレーションなどは、イェマドの道具の発想に近いのかもしれない。架空の他者との擬似関係。しかし、それはまだまだ単なる遊びだ。パソコンだって、他者とのコミュニケートのための道具として機能を発揮している。しかし――。
その遊びですら、自分と異なる生活リズムを持つ他者との長期間にわたるコミュニケーションが不可能だったことは、井上涼子が最もよく知っている。