単に有名だったからなのか?

 「出会い」と「全肯定」。
 俺は彼女の歌を基本的にこのように理解している。故にこそいろいろなものを見失ったこの時代にいくつものヒットをかっ飛ばすことになったし、現在もその勢いは衰えていない。


 しかし、俺は思う。時代は、状況は、彼女の歌さえも踏み越えているのではないかと。全肯定されるような仲間なんていない。運命的に出会おうにもそんな聖人聖母のような存在はもはやどこにもいない。
 絶望に満たされた者にとっては、彼女の歌は耳障りなだけだったのかもしれない。そんなところに「僕たちにはまだ勝ち組の目があるから」などと歌われても「ハァ?」でしかないだろう。「愛ゆえに落ちていく奈落」、愛なんか無い。「あの日胸に灯った永遠の炎」……なんのために?


 他人の善意を信じ、どこかに理解者がいることを願う、一種他力本願にも見えかねない共依存を図ることで、精神の安定にすがる時代はもう終わったのだ。
 そして再び、「自分は自分である、どのように言われても、これが自分だから、自分だけを信じる」時代がやってこようとしている。「誰一人邪魔はさせない」「未来の自分へと」「絡まった糸を断ち切る力はぼくの心の中でもう目覚めている」。


 新規のアニメ、新規の主題歌。そして新装版。
 スレイヤーズに限った話ではない。大久保町、あるいはSCEBAI、裏山の新装版。あるいはレインツリー。あちこちで何かが、ひそかに動き出しているように感じるのは俺だけか。


 なまじ近くに他人がいるから、他人が増えたからいけなかったのか?
 ただひたすらに自己への人格攻撃に抵抗し、孤軍奮闘していた頃のオタクのメンタルが、再び目を覚まそうとしているように思う。


 90年代末、逃避的との非難を越えて、舞人とエメロードと百雷が破壊し、ウテナとリナが飛び出していった世界の果て。それをもう一度求めようとしているのがイマなのだという気がしてならない。
 大江夏樹は世界の果てに向かった。坂井悠二は今越えようとしている。さてさて、「星追い」は10年前に越えられなかった者達なのか?



 いずれにせよ妄想は尽きない。


 そうそう、誤解の無いようにいっとくが、俺は別に彼女の歌を否定しているわけじゃない。むしろ大げさすぎる一部の歌詞を除けば好きな方である。