誰にとっての「スクールデイズ」。

School Days』を制作したオーバーフローのメイザーズぬまきちはヤンデレの流行について、「自分に対する一途さや寄せられる好意をより強く求めたい感じたいというあらわれの1つ」であると述べている[7]。また、竜騎士07は、プライドの下がりきった男性が、自分無しでは生きていけない「恋愛依存症の女の子」を求めた結果がヤンデレであると述べている[8]。また、キャラクターのビジュアル面での要素が飽和状態になっていることを指摘した上で、「ツンデレヤンデレは外面から内面の時代になったあらわれ」であるとしている[9]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AC

 修羅場スレで火種になってたのを拾ってきた。
 俺はむしろ「プライドが下がりきった」ではなくプライドがあるが故に発生する破壊衝動の産物だと思ってたんだけどねえ……。


 俺は前にも

あえて言おう、「乙女ちっくイデオロギー」は既に社会を支配している。そして、狭義のヤンデレは要領と恫喝で立ち回る泥棒猫が跋扈する社会において革命の代行者、いわば英雄として消費されているのであり、極めてラディカルな存在なのである。
http://d.hatena.ne.jp/Kadzuki/20071212#p1

 と書いていたわけだが、この認識は今でもまったく変わっていない。ぬまきちがどう言っていようと、桂言葉は強烈なアンチヒーローとしての性格を持っている。
 正攻法で近づき、「彼女」という地位の正統性を信じ、見事に裏切られた言葉は、まさに真っ当に努力して結果を掴んだにも拘わらずそれを不当に掠め取られた、報われない存在であった。その帰結がアニメ版における惨劇と、世界を解剖することによる「正統性が存在しないことの執拗な確認」である。


 そもそも『SchoolDays』において、消費者男性が誠に位置するというのが大きな誤解ではないだろうか。上述のように、言葉をアンチヒーローとしてみることによって、「スクールデイズ」という言葉自体が誰にとってのものだったのかが明らかになると俺は考える。


 要領がよく、自分の武器の使い方を知り、かつ自分の手を汚さず相手を排除するために手段を選ばない。どこにでもいるいじめ加害者のカスどもの行動原理だが、言葉を取り巻く状況はまさにそんなものだった。
 この状況は、何もエロゲメディアに限った話ではなく、少女漫画においても王道である。財産家柄容姿能力そして計略、すべてにおいて主人公を追い詰めるイヤな女とそのトリマキに包囲された状態。詰まるところ『SchoolDays』の桂言葉と『花より男子』の牧野つくしの間に初期状態における違いはないのである。


 ところが、牧野つくしは奇特なイケメンズに気に入られるという幸運に恵まれ、敵を順当に排除し始める。一方、桂言葉は一片の希望にも裏切られ、その上泰介という追い打ちを浴びせられることになる。
 そしてこれは、「男に気に入られれば結果はなんとでもなる」とばかりの女性向メディアが旗を振るシンデレラ幻想と、「誰の補助もなく追い打ちばかりが与えられる」男性の現実の対比でもある。いかに真っ当に頑張っても不当に扱われた被害者が、「女性」であることで不当を訴えれば誰かが補助につくのと、いくら不当を訴えてもさらなる攻撃があるだけで「男性」にはなんの助けも救いもない、不均衡そのものの対置なのである。


 もうおわかりだろう。一見、誠=消費者=男性のものであると見える『SchoolDays』の主体は実のところ言葉=消費者=男性なのである。ろくでもない(学校での)日常を打ち砕くのは消費者の希望なのである。徹底的に不当に扱われた彼女は惨劇をもって応える。アニメ版で誠を殺害するのは世界であるが、簒奪者は常に新たな簒奪者の影に怯えるということであり、必死に妊娠可能性というかりそめの正統性を振りかざす。これに対して言葉はかりそめの正統性――「男性」への不当な扱いを強行し、一方的な虐殺にも等しいメディアスクラムを導く詭弁――を、文字通り正面から粉砕する。覚醒したアンチヒーローがもたらす、(消費者に対してもサディスティックな)カタルシスの完成である。


 ヤンデレは「男性を愛する」ことを求められているのではない。「タブー・不条理・理不尽を粉砕する」ことを求められているのである。恋愛弱者の男が生み出した恋愛依存・男性依存の少女ではなくでもなく、社会的弱者の男性が生み出したラディカルなヒーロー(漢)なのである。