成果主義が招いた再定義かなあ。

 人間の諸属性(年齢、性別等)から労働としての評価を切り離した(でも「見た目」だけは相変わらず切り離されてないよなw)ことによって、却って窮地に陥っているんじゃないかと思うのが「女性」の世界。能力主義成果主義はたしかに「女性」という属性から労働の評価を切り離す方向に一時的には働いた。けれど、逆に「成果」の面で「女性」を追い詰めているような気もする。「労働者は(その人物の属性を問わず)労働成果の対価として給与を受け取る」という原始的な定義に接近してしまったから、「対価」である労働の効率が悪ければ「堂々と」切り捨てられてしまう。残業しない、制度整備のコストがかかる、など。
 たとえば産休や育休なんてのは、突き詰めれば「自己都合による一年間の欠勤+空白を埋める人材の確保と給与」の負担を会社に押しつけるもの。これらを「労働の対価」という観点から見れば、やはり人的属性の労働からの切断は女性にとって失敗だったと考えざるを得ない。
 「負担」を使用者に強いることを正当化するには、この「負担」が(主に女性に対してのみ受容されることを)正当な労働の対価、あるいは使用者にとって必要なコストであるという論理付けをしなければならない。こうなってくると、労働に対して女性という属性を持ち込む(或いは「父親」「母親」という属性を使う……しかしこれは双方向であるとはいえ形を変えた家父長制・マッチョリズムでしかない)しかないような気がしてくる。ところが、
 ひとつは、使用者が、被用者が「女性」という存在であることになんらかの効用を見込んでいたのならそのためのコストないしは対価として女性労働者に関する制度を整備せよ、という無形の労働を評価する方策……専業主婦の無形労働評価と同じような。使用者は糾弾を怖れて「効用を期待していた」ことを肯定しないだろうし、「効用」が存在するということ自体を打破するのが運動家の目的だろうが、だとすると負担を正当化する手段はひとつ減ってしまう。
 もうひとつは、当該使用者が平穏に経営を続けるためのコストという割り切り方。国家が定めろと要求した制度に違反してない使用者ですよ、というためのコスト。あるいは運動家の糾弾・業務妨害を受けないための総会屋対策類似のコスト。
 不当利権打破のダイナミズムが民衆に沸き起こっている現在、女性が求める「負担」は最後に挙げた「コスト」であるという見方が広がりつつある。さて、フェミニスト諸氏はいかにしてこれを乗り切ることやら。