ひさしぶりに暴論。しかも読んでないのに。
覚えてる人はそういないと思うが、以前俺はこんなことを書いていた。
http://d.hatena.ne.jp/./Kadzuki/20060104#p3
女性が客観だってのは偏見というかどぎついバイアス。「遙かなる時空の中で」なんかひくまでもなく「花より男子」も「ふしぎ遊戯」*4も女性が主観乗せて愉しむ妄想ハーレム構造でしかない。昼メロも半島ドラマもな*5。「応援してあげたい」なんて思考が主流だったのはせいぜい、少女漫画が「恋に恋する世代」のものだった頃までだろう。主人公ないしヒロインと主観が(実感として)共有できる年齢になった瞬間、客観なる視点はきわめて危うくなる。受け手が当事者性を持ってしまえば客観なんて脆いものなんだから。
受け手が当事者性を持つことによって、ラブコメの読み方・楽しみ方が変わると言うことをこのときの俺は書いていた。
で、この過去ログに関係してもうひとつ。
児童小説において、キャラクターの魅力は「友達としての魅力」であることが主流であるように考えられる。読書感想文優秀作品集等の定型として見られる「キャラクターになって」ではなく「キャラクターと一緒に」というフレーズがこの差異を示している。
ちなみに、ぼくが主人公のキャラクターを作るとき、ぼく自身が「こんな友だちが身近にいたらいいな。楽しいだろうな」と思える人物をイメージしています。
(川北亮二『子どもの本と明日』P.116)
この「友達としての魅力」、ひいては「鑑賞対象としての魅力」は、読者の成長と当事者性の取得と共に「同化対象の消費」に変わっていく。ラブコメについて示したように。
で、これを踏まえて、俺は「暴論」としかいいようがない仮説をブチ上げる。
それは、『涼宮ハルヒの憂鬱』はライトノベルにおいて、児童小説からの移行を一気になぞったのではないかということである。当初身近の変わったヤツだったハルヒの鑑賞から、『〜消失』(だったかな? 俺は3巻で投げてその後とびとびでしか読んでないのではっきりしたことはいえんw)での「参加」ギミック発現までを使用して、児童小説的なキャラクターの取り扱いから現在の同化的・主観的なキャラクター消費までを読者に追体験させる構造がそこにあるような気がするのである。
まあこんな突発思いつきの寝言は既刊全部読んでからにしろよ俺、とw。
「構造としては面白い」がどうものめり込めないんだよなあ……。
追記:既に述べている「ハルヒ=萌えクトゥルー亜種」説だと、当事者性を持つこと=SAN値喪失であり、郁紀@沙耶唄が「もどれなくていい」と決断することとキョン・読者の「参加」は同義でもある。