バッシングカーニヴァルとポストバブル教育

 「バッシングは匿名だから発展する」とか言ってる人たちってのは実は状況の半分くらいしか見てないんじゃないかと思う。HNを名義の同一性と取る取らないは彼らの洗脳戦略だろうから正直どうでもいい。


 で「文字のみの怖さ」という枠もたしかにある。文字で表現される部分とされない部分の連続性を読まずに文字だけの「デジタルな」稜線を見ているとツッコミもしやすいという面も否定できない。でもやっぱそれだけじゃないんだろうと俺は思う。


 「バッシング」「カーニヴァル」の原因に、もうひとつ足さなければならない点として、俺はバブル以後の作文教育に目を向けてみたい。
 バブルがはじけて、日本型経営に対する反省だのなんだのがいろいろ出てきたくらいから、教育現場において文章の書き方教育が「英米ナイズ」された。要点を第一段落にぶつけて、日本的な回りくどい「結論までの経緯を読ませる」文体が否定されるようになった。ポストバブルの文章教育は結論をスローガンのようにブチあげて主張を売り込み押しきることを目的にした文章を持ち上げたのである。経緯を重視してだらだら書く文体に慣れた人間にとって、その英米的な文体はあまりに高圧的でアジテーション的でわかりやすすぎた一方、同意と反発の形成が非常に容易なものであった。そして、ここに「文字だけで形成される空間」という条件が加わればどうなるか?

 もちろんこれは俺の想像だし、実証したわけでもない。けれど、ポストバブルの文章教育のもたらした文体の変化は、ネット社会における諸々に少なからず関わっていると俺は考えている。いつまでも小説的な文体の抜けない元文芸サークル所属学生の戯言。