サヨクは「神」になる前に葬り去ることができるか。

 たまには逆サイドから考えてみるか。誤解の無いように断っておくが、俺自身は小泉GJ!、中共朝鮮の内政干渉しつこいぞ黙れ!、そっとしておいてやれ、の人間だが、ちょっと気になったことがあって。ローカル感情論の人間だからこんなこと思うのかもしれないけどさ。

靖国神社が財政難 戦争世代減り寄付激減
http://www.asahi.com/national/update/0811/TKY200608110434.html


 今回のネタはこの記事。
 まさかいないとは思うが、このまま「サヨクが嫌いな靖国神社を、サヨクが嫌いな資本主義頼みで兵糧責め攻め安楽死」なんてバカなこと考えたサヨクはいないよな?w
 結果として「われわれの活動がそこまで追い込んだニ……のだ!」と言い張る言い張らないは別にしても、あえて言おう、サヨクにそんな時間は残されていない。


 体験世代の死滅は、干渉理由の弱体化になる? 世代交代後もシャザイトバイショウカネカネキンコが通用するか? 若年層の硬化が国有化に弾みを付けるかもしれない?


 おいおい、「時間がない」で想像するのがその程度だとしたらあまりに救われない。バカがアナクロにもヘルメットかぶってやらかしてくれた茶番劇(……頼むからあれは仕込みだと言ってくれ……あれがマジだとしたら、夏休みの廃工場解放区の亡霊が肩に乗ってる世代としてあまりに複雑だ……)の方がマシだ。


 俺が考えているのは、時間の経過によって当事者世代が減少することによって「彼らを『神』と位置づけることにかすかな違和感を感じる人々」、つまり「英霊たちを『人間』だと規定する人々」が減少することである。
 実際俺が現地へ行ってみて改めて感じたことは、少なくとも俺の世代くらいまでは、「戦争でなくなった親戚」への「お参り」なんだということで、一般的な続柄で届くレベルの個人への「お参り」において、そこに「彼ら」を「神」と見て神道式の礼をとるのにかすかなとまどいというか恥ずかしさというか仰々しさに引いてしまう感覚は多少あるんじゃないかなと。靖国には鈴が無いから余計に間も取りにくいしな(笑)。
 ところが、俺の次くらいの世代になると、殉職自衛官遺族あたりでもない限り「個人へのお参り」という認識は持ちにくく、それこそ渾然一体の「神」として認識されるような気がする。「本当に神になった」と認識されるほどの事件を引き起こした菅原道真は別格だが、人を「神として祀る」ことが定着するには「人間」が見えている間はどうしても苦しいんじゃないかと俺は思う。
 これに対して、いいサンプルになってくれるのが乃木希典だ。彼は明治の上級軍人であったが故に大衆にとって「人間」を払拭しやすかったという利点はあるが、100年を待たずして神として定着してしまったではないか。


 英霊を「人間として規定する者・神として規定することに畏れ多さを感じる者」*1と「神として規定する者・人間としての姿を知らない者」との勢力均衡が逆転するとき、この戦場においてサヨクの敗北は決定的なものになるのではないか、俺にはそんな気がしてならない。だからといってチェーンソー持ち出さないように。


 『負け組の哲学』より「1.八月テーゼ」の章は、朝鮮有事の「メリット」を説く。その論法に従うなら、このような言い方もできるかもしれない。「靖国に大量の『人間』を送り込めば、彼らが『神』になるのを先延ばしにすることができる」と……まあ戦局次第だがな……苦戦から一発逆転したら人間段階無しで即神だし。


 以上、なんかねじれた雑感。まあねじれてるのはいつものことだ。
 とりあえず坂中腹の売店は菊グッズや日の丸グッズなんて京都でも買えそうなもの売る前にもうちょっと使い勝手のいい土産を売れw(ぉ。

*1:そのへんいかにも日本人らしいといえばらしいんだがw