一貫しているとしたら……。

秋山完と「ディズニー批判」ということで以下省略。
甘いモノの物量攻撃に笑い、鐘の音に泣いた読者は、この先を読むなら希望を捨てよ。
まあ俺程度の思いつきなんかどうせどっかで読んでるようなもんだろうが。

 「ペリペティア〜」以後、秋山完はおかしくなったと思っている読者は俺を含めて少なくないと思う。露骨すぎてSFたり得ていない仮想敵、史実(それもプロパガンダ寄りの)から引っ張ってきた展開と名称と理論、そして軍需産業批判(ゲルプクロイツだのヘヴィスピアファンドだのタモンだのフェイロンだの、いい加減にしろw)……SFにおけるノックスの十戒的な原則に相当するような不文律を、冒しまくった集大成としての南の風。萎え萎え〜。

 しかし。

 露骨で、SFの表象としては劣悪な米帝批判・企業批判が、実はそのまま「まともだった頃の名作」である『リバティランド〜』の頃から既に存在したものだとする読み方もできる。表現自体は劣化したことを弁解できないにせよ。
 それは、アシモフ三原則もスペイン内戦もキング牧師もなにもかもが「ディズニーという資本(が展開する虚構)を批判する」ためのものだという読み方ができるということ。そして、リバティランドにおいて「夢」とされたものは無国籍無種族の共有幻想で成り立つユートピア(しかしカネがないとどうにもならない欺瞞的ユートピア!)。それも何一つ実体のない、文献さえも放棄されがらんどうになった聖地、そこに「いることになっている」ライトブラウンの髪の少女に殉じて語られた、夢。そいでもって恐ろしいことに、おびただしい数の自己犠牲、あれだって動員兵士じゃなくてバブルまでの労働者だろう。


 ……なんだ、結局あの鐘楼ってあの講堂じゃんか。すげえな、96年から飛んできたロケットパンチが「ファンタジーはどっちにも使えるんだぜ」と今片方ばかり見てる連中の正面から左フックで突き刺さる、そんな光景。ペリペティアと南の風が質の悪いプロパガンダなら、リバティランドは超一級のプロパガンダになってしまう。もしかするとあえて「質の悪いプロパガンダ」を演じている可能性も。

 秋山の再評価が必要かな。『ラストリーフ〜』探さないと。