エクスキューズの有無。

カリカリもふもふ
http://conceit.livedoor.biz/archives/50453230.html

 REVの日記さん(http://d.hatena.ne.jp/./REV/)より。
 納得の仕方というか、主人公の正義観、価値観にどこまで向き合うか、というのが受容する側の受け入れボーダー、ということでもあるような気がする。
 最近だとハルヒのパソコン部における脅迫行為を看過するキョンを受容できるかどうかが読者及び視聴者の振り分けになってしまった例だろう。

 限界小説書評17回(http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/017.html*1でも書かれているように、ここに主人公が直面しない作品(もっとも私は蒼衣については武巳同様「元々そういう無力な役」だと構造上配置されている、と認識しているのだが。)、偽悪・諦観を気取るという作品はやはり受容側とも関係しそうである。

 それは一面では、受容側の認識する「世界」が「納得せざるを得ないもの」「自力ではどうにもならないもの」として存在するからではないか、という指摘が可能になる。
 社会的地位も財産もない存在ができることは極めて限られている。団結すればなんでもできる、という安田講堂価値観がまかり通っていた「ねらわれた学園」や、あるいは幻想として生き残っていた「ぼくら」の時代ではない。諦めのボーダー、「現実的な物の見方」、ひいては「究極の選択」の位置は極端に低年齢化した。遵法意識ゼロのDQNに対しても、ダブスタの教員どもに対しても、態度のでかいクソポリに対しても。それ自体は生活記述として仕方ないかもしれない。問題はその先の描き方。


『レジン〜』はともかく『シャナ』は信じたい876信者の俺。876御大はコツコツ成長フラグ積むからじれったいたらありゃしない。

*1:筆者82年生まれって……ミュートスノートがリアルタイムか……年取ったなあ俺……。