すべてはCountryのために


「それでもなお平穏な日々」さんより「「軍国主義的な個人主義」とナショナリズム
http://plaza.rakuten.co.jp/hige7490/diary/200504160000/

ニューズウィークの記事に対するコメント。

 彼女(デーナ氏は女性である)は映画「ローレライ」が伝えるのはオタク世代の価値観であり、それを「軍国主義的な個人主義」と定義する。
幾つかのアニメ、「ヤマト」「ガンダム」「ナウシカ」等の主人公達が逃げることなく戦うと述べ(個人的には作品の選択を一部誤っていると思うが)、「ローレライ」の登場人物もその例に漏れないとする。そして、そういった戦いを美化する物語を幼少の頃から見せられた子供が育つ国日本が再軍備化するのは当然・・・と言うかと思いきやそれを否定するのである。
 なぜか。
彼女はそれらの主人公達が命をかけて戦う価値があるとしているものが「国家・大義」ではないからだと喝破する。そしてそれは「個人として『守るべきもの』」だと語る。具体的には友人であったり、仲間の乗るホワイトベースであったり、何も知らずに日常を送る原爆投下の危機にさらされた都民だというのだ。

ああ、我々が長年レッテル貼りによって否定されてきた感情はそういうことなんだ、とすとんと落ちるエントリ。
院生仲間に言わせると私は未だ国民国家の枠組みに捕らわれた人間らしい(もともとが法律、不真性刑法屋だからしょうがない)が、人権にせよ生命身体にせよ現在「国家」によって「それなりに」保障されているものだと考えざるを得ない以上、現在の国家が倒れた後支配を握る連中がそれを保障するわけがない(と人々が考える)以上、現在の「国家」を守ることが、自分たちの身内を守ることに繋がらざるを得ない。

 そして彼女はそれらをまとめて「命をかけるべき国家があるとすれば、それは人々のささやかな日常生活の舞台としての『国家』だけ、というのだ。」と括る。

そこにあるのは、国家としての「カントリー」ではなく、生活の場としての「カントリー」。

豪屋大介『A君(17)の戦争』は突如として戦乱の異世界に送り込まれた少年の物語である。彼もまた、自らをとりまく人々のために戦争という行為を心理的に「消化」していく。日常生活の場であるカントリー(あるいはホームと言うべきだろうか)のためであり、仲間のために。
命がけの闘争に身を投じるジュブナイルの主人公は少なくない。その恐怖を克服する動機は様々であり、便利な克服動機と表裏一体として便利ではない克服動機がある。同時に、表に出せる動機と出せない動機が。
新撰組や敦盛、あるいは幕府軍兵士の「内面」に涙する一方で、より自分たちの近い時代であるはずの人々に「内面の表に出せない動機」ではなく「表向きの動機」だけしか感じ取ることができないというのも不思議な話だなあと思う。