二次元への「耽溺」と「外野席」

先日から続いている「揺り戻し」だが当分このままで行こう(笑)。
あちゃらネタはそろそろ「民族性ジョーク」界隈を焦土にしかねない勢いで進行中ゆえに何を書いても事実より笑えない。


さて、『電波男』のついでだ、私のホームグラウンド「二次元」について書き殴ろう。


昨日分で私は「二次元に対する耽溺の方向性についてはやや異なる」という表記を用いた。
三次元に帰る気があるにせよ無いにせよ、現在のオタ、特に男性に対するバッシングおよび視線については、この「方向性」が明らかに固有のものであるからではないかと私は考えている。もちろんそこに性犯罪等の女性の「被害者性」というバイアスは介在するが、男性であれ女性であれ架空のものに対する妄想性は何一つ変わらないはずなのにバッシングに差異が出ることについて、この「方向性」は避けられないと思うのだ。


まず、ことを二次元に絞り、三次元の映画やドラマはここでは除外しよう。ペヲタオバハンであれモーヲタであれ「恋愛資本主義」およびそれに付随する消費の上ではバッシングの対象にならないからだ。
さて、男性ヲタの場合、二次元においては『電波男』の本田氏にしても、『それ散る』時代の"嫁宣言"サイト間抗争にしても、当事者=本人という構図がある。外形的には「本人」が白昼夢内でイチャイチャエロエロな妄想を展開しているということになってしまう。これは主人公=本人という構図によってユーザを取り込み成長したADV、一人称ビジュアルノベルという地盤の問題でもあるが、この構図において二次元に入ってしまうことはすなわち三次元からは完全に抜けてしまっているということになる。さようなら三次元こんにちは二次元。三次元を顧みない未練なき切り替えこそが「二次元への耽溺」を脅威として認識させていることは年末以来のバッシングを見れば分かるように「三次元での感覚の欠如」という便利な言葉を生み出してしまった。
一方、女性ヲタ、いわゆる腐女子と少女マンガ読者である。彼女たちは「プレイヤー=本人」といえる媒体を『アンジェリーク』まで持ってこなかった。彼女たちが耽溺した少女マンガの世界では、恋愛の主体はあくまでもヒロインだった。藤本由佳里氏のいう「一途な少女」の恋愛イデオロギーは「目立たないヒロイン」の悪戦苦闘*1を自身と重ねはするものの、イコール読者にはなり得なかった*2。結果として女性はおっちょこちょいな「一途な少女」を電車男さながらに応援し、本懐を遂げた暁には「よかったね〜」と友人と共に喜ぶのである。この構図の上では、二次元キャラは完全に客観化されている。本人はあくまでも現実世界に居残って、ヒロインの苦悩と幸福だけを最終的にはヒトゴトとして感じる。いわんや、女性の存在しない801をや。彼女たちは客観的に攻と受の絡みを見て「ああそのセリフがいい!」とやっているわけだ。(注:いわゆる電波、前世厨とかは論外。)

両者の「耽溺」の違いはそこにあるのではないか。被害者の有無だとかそんなのはバッシングの差異になんの関係もない。

なお、私の「修羅スキー」嗜好は両者の分類ではどちらかというと後者になる。ゆえに「異なる」という書き方をした。ヒトゴトとして楽しむプレイヤーであり、ある意味すごくたちが悪い。でも、やっぱり帰ってこれないのは前者と同じ。

*1:その悪戦苦闘さえ電波男で言うところの値踏みの結果であるわけだが。

*2:一途な少女イデオロギーカタルシスを求めた結果ヒロインを徹底的にたたき落とした段階からスタートさせるようになったため、開始時点では憧れるような女性でも、どこにでもいる普通の女性でもあり得ず、あるいは「自分の方が恵まれているのだからより幸福になれるはず」的な暗にヒロインと同一化し得ないような誘導が存在したと私は考えているのだが。