要塞立てこもりの80年代

 80年代の少女小説を一言で表現するならば「厳重に隠蔽された要塞への立て籠もり」だと思う。70年代が教化と逸脱への志向であったのに対し、その規範たるジェンダーや将来を切断した要塞的な空間への立て籠もりが傾向としてある。それはすでに過去ログで述べたように地方であり私立学校であり寄宿舎である。


 ところが、それは同時に日本少女小説の最大の罪でもある。
 無視されていること、不可視であることと自由であることを混同してしまい、深い森の中だの、王宮の中だのに未だ立て籠もり続けているのが大半。むしろ外との接続方向へ向かおうとすると、打ち切られるか、レーベルの外でやらなければいけなくなってくる。たとえば『芙蓉千里』なんて絶対にコバルトではできない。
 こと少女小説において、フーコー言うところの「近代化」や「公共性を僭称した共同性の打破」は、戦前はもちろんコバルト等の現代少女小説の成立・展開時期においても完全に不発に終わった(丘ミキのキスシーン事件やキンタマ事件なんかはその典型だろう)ばかりか、90年代に吹き荒れた「自分探し」ブームはもちろん、エロゲ(未来にキスを)とアニメ(マイトガイン)とコミック(レイアース)と当のコバルト(影の王国)における「メタ爆弾」の多重爆発さえ限定的な効果にとどまったと言わざるを得ない。


 昔書いていた影の王国論を改稿しつつ、本命の原稿が進まない。捉えておくべき射程範囲がどうも長すぎる。
 それはそれとして、ラノベにおける「気弱な少年」の登場と80年代後半の腐女子全盛期の関係が気になる今日この頃。マッチョじゃない少年が主人公になることが許される空気が形成されることと、女性向けショタジャンルの隆盛が無縁だったとはどうにも思えない。要するに崎谷亮介。