「社会的物理的に無力な現実」と「期待可能性なき不作為」のはざまでこれらの事実にどう向き合うか

 大河歴史ものを除けば、ラノベを乱暴に一言で言うとそういうことだと思う。
 逆に言えば期待可能性(期待可能性や義務は同時に不作為に対する作為義務の根拠である)をいかにして排除するかということが聖域の作り方でもある。「女性」であるとか「地方」「辺境」の物語であるとか。


 丘ミキなんてのはその典型であって、女性の自立を表向きうたいながら金玉騒動だのキス騒動だの起こしている割には、構造的には全力で社会に背を向けている。そんなものを書いていた人間がどこぞの解説でセカイ系少年を糾弾するのはチャンチャラおかしいと思うのである。


 その逆の方向性で不作為を嫌うものの代表格ともいえるのが十二国記(とりわけ風の万里)であろう。また『ザンヤルマの剣士』では、裏次郎はノーブルグレイとモノクロームの二度にわたって「力がないから何もしなかったというのならなぜ遺産を手にした今も目的に向かった行動を起こさないのか」という趣旨の発言を行っている。
 そしてゼロ年代、『風の万里〜』と同様の構造を持つ作品として『とある飛空士の恋歌』『風守竜の叙情歌』がある。
 エロゲでは、大十字九郎の「何もせずにやっぱり駄目だったときのほうが恐い(うろ覚え)」というせりふもある。
 また既存の序列からまったく外れたところで不作為を否定する「幻想殺し」がいる。彼の「殺す」幻想は敵役の傲慢であると同時に「何も出来ない」という諦め(主に女性のな!w)という幻想でもある。


 不作為を留保なしに肯定したときラノベは完全に死ぬ。というか文学自体が死ぬ。あきらめきれないから文学になる。
 バブルが崩壊して社会的な期待可能性(それはエリート幻想を含む)、プレッシャーから解放されてからのラノベは一面には無軌道で勢いがあってたしかに面白いのだが、やはり重すぎるしがらみの中であがいていたころの方が俺は好きだ。まあ結局はオサーンのたわごとである。