パクリ説とはまた別に

 「君望のパクリ」説が飛び交った某海外ドラマが、見方を変えると実に病んでいるキモ母ドラマに見える件。というのは先日聴講した翻訳学シンポでの感想。


 シングルマザー及び私生児に対する風当たりが非常に強いということを伏せて翻訳している(2ch等でしばしば話題になる「海外養子」の一部は要するにこれ)ことの弊害と、本来は長幼の序列が極端な社会であり敬語バリバリのセリフをタメ口・男女別表現の字幕にしていることはおかしいということに関する報告があった。
 この中において、父系血統主義の社会では私生児はいとも簡単に母親から「奪われる」という社会状況と、「それを防ぐために事故で失った記憶の上に偽の記憶を上書きした」というシナリオが紹介される。
 そして、翻訳先の日本において上述の社会状況は伏せられているが故に、ファンダムでは母親が悪者にされている、と報告者は語る。




 で、ここからは俺の感想。
 マスゴミバイアスによる隠蔽とそれによるキャラ評価の変化なんてことは俺にはどうでもいい。俺の注目点は「記憶の操作」という手法。
 ヤンデレを愛する紳士諸氏ならご存じのとおり、記憶の上書きは過去の支配であると同時に、規範、慣習をも踏み越える。上記の例であれば「既に父親は死んでいる」ことを記憶の上で徹底することが姻族による掠奪および本人による離脱の阻止に結びつき、「父系によって簡単に奪われる」社会状況を隠蔽してしまう。エロゲ的お約束だとインセストタブーに関わる近親者や邪悪ヒロインが「私は恋人である」と刷り込むのがその典型(前者の場合、記憶上書きしてしまえば禁忌に基づく反対動機がなくなる。ex.水原賢治「Silent Lover」『日曜日に彼女は』(ワニマガジン 1996)etc.)だろう。公共性、共同性(あるいは「公共性の皮を被った共同性」)とヤンデレには深い関係があるとする俺にとっては面白い報告だった。


 まあ俺にはキモ母属性はないし、そもそも実写に用はないんだがな!w。
 そんなわけなので1/9.10二日間の国際シンポは、「俺という人間の脳味噌」には極めて有益だったが、俺の「本業」に利益をもたらすかどうかは定かではないw。