そこまでマッチョでも野蛮でもない

 小沢民についてのブコメを巡回すると、さんざん「はてな村サヨク」だの「はてサ」だの言われている割に、小沢批判に傾斜しており、サヨクにしてはおとなしい印象を受ける。だからサヨクの人々の中にはこの反応に憤慨している人もいるのだが、これはこれで面白い。
 前述の「公務員の自由」観点というよりは、1.独裁者小沢への反発、2.憲法の観点からの批判、3.日本という国家の国際的序列について、4.病気持ち老人を私利私欲のために振り回すことへの罵倒、といったものが主流を占めている。サヨクのわりに天皇制転覆めいた話は滅多に出てこないのである。


 国体、制度をひっくりかえしてリアル北斗の拳世界で生きていく自信のある者が少ないのだと考えるべきか、現制度に不満はあるが日本という看板が失墜することまでは望まない者が多いのだと考えるべきか、いずれにせよ極端サヨクであるアナーキストや革命主義者にとっては物足りないだろう。反権力感情はあるがそこまでは望まない、比較的ぬるいサヨクの多さが浮き彫りになったわけだ。


 しかし、もはや制度に寄りかからなければ生存出来ない社会でそれを求めるのはあまりにマッチョだと言わざるを得ない。ましてや自身の生存に加えて親、一族という縛りのある日本では、これらの拘束を振り切るための条件が必要になる。ひとつは生存のための大きな力であり、もうひとつは拘束に対する負い目の解消、ないしは責任の一時的な消失である。
 だからこそ、1980年代以降のジュブナイル少女小説ラノベ*1の中には、学歴等の制度によらない力への渇望と、家族という拘束をいかに逃れるかという問いと、極端になりきれない弱さが潜在的にある。もはやイギリス児童文学の少女たちのように「手に職」だけでは生きていけない。事実いったいいくつの専門職が学歴不問の資格制度になっているのだ。卒業証明どころか住民票もいらないで受けられる試験など司法書士くらいしかお目にかかったことがない。


 自身の生存と理想を天秤にかけたとき、憲法というものは良くも悪くもリングロープになる。もはや右も左もリングの中でしか殴り合えないのが現実ではないだろうか。
 場外乱闘をしたいならまずは生存を第一に実現してからだと思う。俺が「暴力革命起こすなら女性や子どもでも火事場泥棒や強姦魔等の暴徒から自分を守れる、一人一丁の銃社会を実現してからな」と嘯くように、一定の条件が整わないと場外乱闘は出来ない。その意味では戦後混乱期から(大卒という制度の支配が極少数派だった)安田講堂までが、場外乱闘が可能だった時代であり、もはや現在はそんな時代ではないということなのだろう。「憤慨するなら金をくれ」である。


追記
 てか、だらだら書いてきたけどこんなことはとっくに井上陽水が言ってるんだってことを思い出した。つまり「傘がない」。

*1:東洋圏でよく売れる、というのはそういう点もあると思われる。少女小説の状況を見ていると自主独立で頑張りすぎる少女の作品はろくに続刊が翻訳されていないのさえ目に付く。たとえば鶴山文化社での『楽園の魔女たち』は3巻までで止まったままである。