さよなら艦爆(一時的に)

 『世界の傑作機 九九式艦上爆撃機』を買うための予算が

鞍馬天狗のゆくえ―大佛次郎の少年小説

鞍馬天狗のゆくえ―大佛次郎の少年小説

 に化けてしまった。まあ某所から返金来たからしばらく書籍代は安泰なのだがw。


 大佛次郎ってあんまり気合い入れて読んだことなかったけど、今改めてみると、俺や少し上の世代が熱くなったマンガや小説の原型、モチーフめいたものが結構散らばってて、当時の読者内心の盛り上がりがなんとなく「伝わる」のが面白い。たとえば大陸の戦場から帰ってきた男がまた自発的に戦場へ行く話なんか、おまえどこのミッキー・サイモンだよ、というかランボーだよ、と。


 個人的には、著者が「戦闘を淡々と描き美化していないこと」に注目しているのに目を惹かれる。戦時中散々「美化」したメディア、新聞の内側にいたことが影響しているのかもしれないなと思うと同時に、左右問わずイデオロギーに即して美化することは面白さを没却するとともに、紙一重で敵を招く、つけいる隙を与えてしまう……今で言うところの「時事ネタはやめとけ」に属すると俺は考えているので。*1





 そういや艦爆で連想してたけど、ロックオンだけさせた状態で当たり目度外視の爆弾投下とかできるのかねえ……とふと思った日のこと、そんな日のこと。
 シースキミングミサイルと無誘導爆弾ないしはJDAM系放物線軌道武装の実装、欲をいえば機銃弾道交差点座標の任意設定ができれば大戦機プロジェクト上での希望はほぼ完璧なんだが……。

*1:吉田版「大和」はその典型だろう。美化と自嘲の狭間にある表現が後に訴訟沙汰になったり『雪風ハ沈マズ』などで糾弾される羽目になっている。冬月の艦長も、カッターの士官も、片道特攻という状況での「(自分を含む人々の)生への執着」に対する「自嘲」であり、総員退艦発令後にも拘わらず揚がったままだった大軍艦旗に飛びついた少年兵という「美化」とワンセットで考えるべきものである。しかし現在それらは単独で議論の俎上にある……というのが俺の読みである。