ラノベって実は「団結」が嫌いだろ?と思う今日この頃。
このところ〆切前のドのつくナーバスさ丸出しで泣き言率上がってたけど、せめてオンライン上では強気でいるべきだと思い直したのでたまにはまともに更新する。
某文献を壁に叩きつけてる暇があったら更新しろ俺!とばかりに久しぶりに長文書く。
ま、寝言なので以下省略。
「大人の考える少年少女」への反抗から、教条性を排除してきたことで誕生のがラノベであることは周知の通りである。
教条的ジュブナイルや児童文学が構築した「団結と解放」のリベラル的群衆劇は、価値観が先行してそこにある胡散臭さを排除できなかった。舟崎克彦いうところの「反体制という名の体制」を作り上げたに過ぎなかった。その結果数年後には淘汰されていく。
また、ほぼ時を同じくして、価値観の相対性を子ども文化の中で正面から認める作品が現れる。要するにトミノの登場である。
パル・マスケの言う「愚挙」など、未だにライトノベルの一部に「集団」への嫌悪や懐疑を感じるのはこの頃のジュブナイル系作品群への反抗無いし反省、あるいはトミノの呪縛のように思えてくる*1。
はたして『ねらわれた学園』の未来人は「悪」だったのか。苛烈に見える統治はやり方を間違えただけに過ぎない(あんな下っ端使ってるからだw)ではないか。計画の挫折も主人公たちが「正しかった」からではないだろう。
ラノベ界隈でそういったカッコ書きの「正義」「大義」への嫌悪を強く出しているのが麻生ではないだろうかと思う。彼は『ポートタウンブルース』から一貫してカテゴリーで人を評価することを嫌悪し、またカテゴリーで繋がる群衆を否定的に描く。一方で群れる人々の弱さと愚かさが紙一重にあるさまを描く。なのに、『ホワイトファング』『VS』では少々毒が強くなりすぎ、弱さを受け入れられなくなっている気配がある。
今の麻生に欠けているのは「弱さ」への視点ではないか、そんな風に思う。絶望するのはかまわない。けれど、弱さの偏在性を見失った麻生は、どうやら以前のように面白くはないらしい。