米沢嘉博『戦後少女マンガ史』と賢者ハーン

 一昨年のエントリ「過去からの来襲者」より。
 なんとかしてこじつけると、更科いうところの「乙女ちっくイデオロギー」は、keyやleaf、otherwiseが登場するよりもはるか先に、ゲームの構造そのものによって指摘されていたのではないかなんてことを考えてしまう。

 これ、究極的にはループそのもので(半月単位でループする)、その閉鎖空間内で「定型」に従って行動する女の子(王子もモンスター化してるんだけど)は、最終的にはモンスターにならざるを得ない、ってことでもあるんじゃないかなと。
 つまり、二次元お約束通りのヒロインを徹底していくと、主人公を誘惑拘束する存在になるか、あるいは外敵を粉砕する存在になるしかないのか、ってことなんですけどね。なぜならそれしか許されてないから。ゴールドドラゴン到達したときはちょっと切なくなったっけ。

 http://d.hatena.ne.jp/Kadzuki/20061105#p3

 米沢『戦後少女マンガ史』第九章、88節は山岸凉子『天人唐草』の岡村響子を「怪物」と称し、少女幻想という強固な夢を「邪悪な夢」と呼んだ。この節において米沢は幻想の危うさを山岸や大島の作品から読み取っている。また少女と同じ「邪悪な夢」に触れながら「夢との訣別」を知った「中年男」にとって、少女は怪物のような存在なのだと。
 けれど、彼には現実に止まらなければならない理由があった。ではもし、止まる必要性が極度に薄い者にとってはどうなのだろう。「邪悪な夢」に身を投じ、そのまま帰ることをも放棄するという選択は非常に魅力的なものに映る。


 たとえばマヨヒガと琴乃宮雪、奈落と音無彩名*1はその類型の一つであろう。単一の「時」が続くマヨヒガ、単一の「時」しかない奈落は、時間経過や変化を呼び込まない。ただ同じ行為を繰り返す世界である。
 しかし、ウロボロスの塔においては、精神はリセットされないまま日々を繰り返すこととなる。満月の日に塔にはいるとレベルは下がるが記憶は引き継がれ、呪いのペンの効果で「記録者」の役目を与えられ、塔に留まることを強いられた賢者ハーンは最終的に4階で狂って怪物化し酒盛りする羽目になる。時間とともに、当人の意思に拘わらず進行する「成長」ないし「変化」が消されていない状態で、それらと確実にコンフリクトを起こす「幻想」に閉じこもることの危険性は、塔には依然として残っていた。マヨヒガや奈落との大きな違いである。


 少女達に愛され続けるエンドレスな夢の中でしか生きることができなくなった『カオス・エンジェルズ』の王子は文字通りの怪物となってしまい、外からの侵入者たる主人公を正面から迎え撃つことができない(屋上に登り詰めた主人公は、右(左だったかな?)に気配だけを感じ、向きなおることによってラスボスである怪物化した王子と遭遇できる)。6階最後の敵として立ちはだかるゴールドドラゴンの少女は、そんな彼をそっとしておいてほしいと主人公に訴える(そして倒され、場合によっては4階からわざわざバブルスライム能力を持ち越してきた*2暇な変態の餌食になる(ぉぃ))。


 はたしてプレイヤーはどちらになるのだろうか? 塔に閉じこもり「怪物」となってしまった王子だろうか。それとも「怪物」を愛したゴールドドラゴンの少女だろうか。
 ただ、少なくとも私の目には、桂言葉は王子に見えるように思う。彼女にはモンスターとなる者達こそいなかったが、塔の周りには――。

*1:注・ノベライズ版からの知識なので原典は未プレイである

*2:レベルが上限になっていても、彼女を倒すには二撃必要であり、二枚目のCGを見るためには1ターンで二撃を与えなければならないからである。