作家といい加減な考証

北村健太郎「「錆びた炎」問題の論点とその今日的意義」(『コア・エシックス』vol.1 pp01-13 立命館大学大学院 先端総合学術研究科)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/ce/2005/kk01.pdf

 地裁じゃ燃えないってのは既に書いたとおりだが、思い出したのがこの事件。で、なぜ森村誠一が、『悪魔の飽食』に対する態度まで疑われかねない、いいかげんな考証を良しとしているとさえ見られかねないような無理な小林擁護をしてるのか、なかなか疑問が解けなかったんだが、なんのことはない、森村自身が結局のところ考証の軽視をなんとも思っていなかったということか。
 というのも、同年9月に森村もまた「凶水系」でいい加減な考証と無理解による問題を起こしていた。図書館の守秘義務に関する考証軽視は未だに払拭されない。最近の状況が舞台なのに貸出カードをきっかけにするロマンスはその最たるもの。現場から見れば「赤かぶ検事」初期短篇+「七日間戦争」の『図書館戦争』シリーズでさえ、主人公が資料隠匿をやらかしている。
 つくづく「作家」による考証軽視の常態化は逃れ得ない宿命のようなものなのだろうか。「記者」「論説委員」は……ああ、最近じゃなくてこっちは昔からかw。


 「絵になる」「盛り上がる」「イデオロギー」という理由で脚色や捏造が為されるのは別に政治的著作に限ったことでもないしすべてが正当化側に使われるものでもない。当時は肯定されていた英雄的捏造、「見てきたような嘘を言い」が後に「鬼の首」となっているのは皮肉というかカネと利権の魔力というか。