「期待可能性のない行為」から「原因において自由な行為」へ。

刑法ネタじゃないよ、念のため。

過去ログ

成果主義が招いた再定義かなあ。
http://d.hatena.ne.jp/Kadzuki/20061115#p2

に関連して。
フェミニストやフェミファシストが招いてしまった悪化は、労働の面に限らずもうひとつある。
前回、

たとえば産休や育休なんてのは、突き詰めれば「自己都合による一年間の欠勤+空白を埋める人材の確保と給与」の負担を会社に押しつけるもの。

というかなり尖ったことを書いたが、実のところその原因もまたフェミニスト達が招いたモノでしかないと私は考えている。

それは、この負担を押しつけることに対する責任をおっかぶせ、あるいは阻却するシステムに対して、彼らは自ら破壊工作をしてしまったからである。

家制度が色濃く残っていた旧来の女性にとって、妊娠・出産は家制度を容認する社会の「公務」だった。「公務」であったがゆえに、子どもを持たないことが姑との問題や親戚うち、あるいは近所とのトラブルの原因になっていた一方、労働の現場においては非常に腹立たしい負担ではあるものの、それなりに容認されてきた。
ところが、家制度が順次解体されてしまった状態において、妊娠・出産は「公務」ではなくなってしまった。「親戚もうるさいだろうからねえ」「それが要求されてるんだから仕方ないねえ」という上の世代の理解も無い。「妊娠・出産で職場を離脱しない」という行為にほとんど「期待可能性」の無かった頃においては会社や使用者に負担を押しつけるという行為はある面で責任阻却的に許されてきた。
ところが今や「公務」としての色はフェミニスト達がかなりの部分で打破してしまったし、子どもを持つ・持たないが「自己決定権」に包含されてしまった以上、「持つ」こともまた自己決定の結果になってしまう。社会的に許容されてきた「公務」は、家制度や役割分業の打破の中で、図らずも論理的帰結として「自己都合」に叩き落とされてしまった。
その自己決定権を行使しておきながら「そういうようにできているんだ」といまさら「公務」性を主張して責任阻却を求めても、39条における「原因において自由な行為」事例のようなものだということになってしまう。
自分で自分の首を絞めておいて、この上まだ優遇しろと主張している姿は滑稽であり、そんなことやってる間は理解など得られない。戦略の再構成が必要だと思うね。本来フェミニズムの役割はユニヴァーサルデザイン的な最適化であって変態的カスタマイズじゃないはずだが。


以上、独身主義15年目な20代の声。