「彼女」の「恋」は、「彼女」「恋」だけを意味しない。

 「これは、『自由』と『階級』を巡る内ゲバの物語である!」なんて大上段に言ったところで、キバヤシ慣れしてる人たちが「な、なんだってー!!!?」と乗ってくれるくらいが関の山。ま、実際深読みすればするほど『悪霊』退治なんですけど。


 いやまあ以前もこんな話書いていた『灼眼のシャナ』のことなんですが。




 はい、ここまでで真面目な長文だと思った人、まちがい。


 シャナ個人に限らず本作の恋・愛は、「制度・社会通念からの自由」を意味していると私は考えている。


 つまり。
 フリアグネの人形やモノへの愛も、(マージョリーの殺意に変わった愛も?、)愛染の近親愛も、吉田一美の「幸福にはなり得ない」愛も、アシズやメリヒムやチェルノボーグの身分を越える愛も。
 だとすると、既に未来のないシャナの「子どもをなしえない」愛もまた「制度・社会通念からの自由」に結びつくのかなと。
 で、もしかすると、あくまでももしかすると、シャナの体型も性的未成熟*1も、実はシャナという存在が「彼女」ではなく「彼=少年」の変奏であるのかなと、腐敗臭まき散らして妄想エンジン回してみる。
 「『灼眼のシャナ』は少年同性愛の物語だったんだよ!!」「な、なんだっt」


(額に銃創、4秒後くらいに銃声)





 ね、真面目な長文じゃなかったでしょ?

*1:最新刊での、ヴィルヘルミナの発言から、シャナが初潮前であることがうかがえる。