人質へのオトシマエ

連中わかってるのかな。
自分たちがとんでもない落とし穴にはまりかけてることも、裁判官が自覚ないままそこに突き飛ばしたことも。

朝日・東京・増田 「東京地裁偉い」   産経・読売 「裁判官がおかしい」
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50631745.html

 下級審だからスルーするつもりだったんだが、このマスコミ論調だとどうもこの判決がいかに原告にとってやばいモノなのか自覚していない。裁判官が無自覚に崖っぷちに追いやったものを、そのまま持ち上げていて本当にいいのか?
 俺は「左派の自虐の押しつけと趣味の弾圧」に反抗してねじれてしまった人間であるが故に、19条21条についてはかなりラディカルな人間だが、この判決文は都教委にとってではなく原告にとって喉元の刃だと思わずにはいられないのである。これ、原告は控訴しないのか? だとしたらひどく失望だ。
 それで給料もらっている以上「職務として」指導要綱に従うべきだという俺の考えとはまた別に、ちょっと原告の姿勢に疑問を感じる。

 これまで、国旗国歌の反対側が主張してきたのは、いわば生徒を人質に取った「指導への反抗」だった。これは逆に「立たない教師の前で斉唱すると内申点を引かれる怖れ」を考慮すればこれはこれで脅迫なのだが、それを考えないにしても、「生徒の多様性」を大義名分に国旗国歌の指導拒否を行ってきた反対派教員に対して、地裁はえげつない判決を突きつけてしまった。
 いくら「また難波か」とはいえ、結論をどちらにするにせよ、「生徒へのあおり」(それは教師・生徒という事実上の特別権力関係に基づいた強制と同義である)を禁じたのは憲法の要請から必然的な落としどころである、これは仕方ない。「また難波か」でも辛うじて踏みとどまったと評価しなければならないところだろう。しかし、教師側は生徒に「起立斉唱しない選択肢」*1を「指導」したいのであり、またそうしなくては「生徒の多様性」を人質にしたこととの整合性がとれなくなってしまう。なのに判決が生徒への煽りや式の妨害を文脈上やんわり禁じたことによって、教員側はこの「指導」のシャットアウトを喰らってしまった。逆に都教委はこの判決によって教師の具体的行動に対して「判決に違背している」という攻撃が可能になってしまう。生徒への「指導」を禁じられ、「教員個人の」消極的不参加しか許されない。副担任制度や専科制を導入して人材を増加し、また「教員の質・適性」が厳しく問われるこのご時世少数派の反対教員を配置的に生徒から切り離すことは「処分色を持たなくても」可能になってしまった。教員免許が更新制になれば、裁判官の再任拒否同様の問題も(こっそり)起きるだろう。そのたびごとに、今度は個別の労働裁判を引き起こさなければならない事態になるのは目に見えている。それも今度は「労働法」限定でだ。労働法の土俵になれば「採用の自由」と同様の先例で片が付くのが想像に難くない。……おい原告、それで満足か? 日頃の信条さておいてわりと本気でこれを問いたいぞ俺は。
 あと俺が笑ったのはピアノ伴奏関連。学校での音楽教育の多様性は、楽器が何かできれば構わない、ギターで授業する教員もいる*2くらいまで発展した。あまつさえ、シンセ等を持つ学校では伴奏を人間がやる必要もないのである。いつまでグランドピアノ幻想、「ピアノ弾けるヤツは偉い」幻想に縛られてるんだこのブルジョアめ。


 で、原告がこの判決をそのままにしてはいけないもうひとつの理由が、タイトルにもある「人質」への態度。たとえ表向きでも「生徒」を盾にした反対運動が、このような個人レベルの飼い殺し生殺しでしかない、ただ「自分だけ起立斉唱しなくても処分されない」程度の判決で満足しているというのならば、彼らのいう「大義」を確実に没却すると俺は考える。「大義」がないのはおまえらの方じゃん。結局自分たちの利益のための、利己主義運動だったのかということになってしまう。生徒のためじゃねえじゃん。所詮教師が生徒のために動くなんてのがイデオロギー的な幻想だってことはわかっててもさ。生徒を利用した時点で教師として「詰み」、その先にあるのが生徒の権利侵害に直結しようとも後退ができないところにいくしかなくなってしまっている。その代償は決して安くない。


 この飼い殺しor失墜必至の状況、原告はどうするんだ?



 長々書いてきたが、実はさっさと最高裁行けと思ってるだけだったりw

*1:今日日の中高生、起立しても歌ってないのがオチだと思うけどな……w。自衛隊イベントですら起立脱帽はしても歌ってない観客が大半だぜ?

*2:そして某動画ではないがエレキギターでアンプ繋いで国歌をひいてはいけないという法はない。