どっちを意図しているんだろう、それとも両方?

『モダンのクールダウン』の一節。

 例えばわれわれは、あまりにもわかりやすいドラマ、あまりにもやさしいゲームはかえって楽しめないでしょう。虚構的存在、キャラクターが愛すべき対象であるためには、あまりに都合よくできていては、かえって「リアリティ」がなく、愛着も抱けないでしょう。では愛すべきキャラクターとはいったい、突き詰めていくとどのようなものになるのでしょうか? 少なくともそれは、われわれにとってある種の手ごわさ、扱いにくさを感じさせる対象でなければなりません。つまりそれは、いくぶんかはわれわれを傷つけ、悩ませ、不快にするような対象でなければならないでしょう。それは、作り手にとっても、受け手にとっても、必ずしも都合がよくない、あたかも自律的な存在であるかのように見えてしまう方がよい。

――『モダンのクールダウン』P.233


萌えに限って言うならば、「扱いにくい、手ごわいい」ことを、「克服することができる」が故に「愛される」キャラクターを意味するのか、それとも、その「扱いにくい、手ごわい」ことによって「きわめて萌える事実が反証される」が故に「愛される」キャラクターを意味するのか、どっちなんだろうかとふと思った。普通に考えれば前者なんだろうけどw。
前者ならツンデレや高飛車や強度支配姉系、後者なら嫉妬修羅属性や依存系や邪悪ヒロイン


「さあ俺たちの時代だ!」とキモウトフリーク的に喝采の声を上げるのもアリだけど、うちみたいな異端はともかくとして。
なんとなく「現実へのコミットを完全放棄した」側、ミリタリーカルチャーさえ認めない反戦左翼じみた、ラブコメの駆け引きやゲーム性を認めないような側にとっては必ずしもその「手ごわさ」は必要とされていないように思った。まだちょっと三次元の「恋の駆け引き」カルチャーを容認する立場にあるのかなと。エンタテインメント一般的には正しいけど、萌え方面についてそれを一般化できるのかなとオタ的に愚考してみる。


未来にキスを』のもたらす「気味の悪さ」を想起すればやはり正しいフレーズだけど、『水月』の雪さんを思い出すと、あそこまで主人公全肯定して包容してくれる、究極に都合のいい存在*1でも愛されるし。

いい加減宿取ろう……。

*1:不在中に寝床が大変なことになってるとかアンモニアが以下略とかいろいろと「手強い」のはたしかかもしれないがw!!