くっだんねー読み方実践。

主人公や敵役の思考を哲学・思想的に解読してみたり、構造を哲学に重ねてみたりするなんてのはよくある話。
でもそれは、娯楽として小説を楽しむ立場においては、いくら当てはまっているように見えてもまったくもってつまらない読み方であると俺は思う。
でも、そのくっだんねー読み方を整理して裏付け取って、「くっだんねー!」と審査側が言わなければお堅い論文になってしまう(たぶんw)。なんか「痛快娯楽小説」からすれば空気読まない厨じみた冒涜寸前の綱渡りが文学屋志願ってやつなのかもしれない。


というわけで、なんとなく思いついてしまったんだから、今日はその「くっだんねー読み方」をしてみようと思う。


せいちょうしないふくらみが大好きな人は876式トラクターを大量注文したくなる前に撤退することをオススメする。読んだらもう面白く読めなくなったじゃないかと言いそうな人も撤退した方がいい。


端的に行こう。
フレイムヘイズが女性か子どもなのはなぜか」→「革命の犠牲になるのは女性と子どもだからさ」*1
……というのが今回の思いつきである。まあ実践運動家には言いたいこともあるだろうが、抵抗の名を借りた積極加害者の出ない革命なんかあり得ないというのが俺の認識なので。
もちろんこれは「とむらいの鐘」結成から大戦までの流れより昔の場合には必ずしも該当しない。またドレル・クーベリックのような「生き残った被害者」ではなく「奪われた犠牲者」ゆえの復讐者もいるからこの対応は正確でもない。


アシズによる大戦以前で、かつ年季の入ったフレイムヘイズの姿は、中世以前の支配層、ノブレス・オブリジが生きている時代のアンシャン・レジームの姿をとった存在である。カール・ベルワルドは性格に問題こそあるwが戦士であり、ゾフィー・サバリッシュは信仰、ヴィルヘルミナ・カルメルはその神器からの呼称にうかがえるように姫=王家である。マティルダ・サントメールこそ無頼の姿であるが、それは彼女の正体を巡る議論において候補に挙がったジャンヌ・ダルクのような、体制側に立った義勇騎士団を表していると解される。大戦には参加していないがカムシンもまた王子である(彼の話が真実ならば、だが)。
彼らはあまりに急激な世界の変化を望まず、バランスを取ろうとする存在である。
一方、従来そちら側にいたはずの存在が「棺の織手」アシズである。部下に裏切られたのか、領民に裏切られたのか、力は所詮力にしか過ぎないことを知り、体制が人を守ることはないと信じ、反旗を翻した存在である。
そして、そこに集う九劾天秤もまた同様の性格を内包する。「染まった」ボンボンと老兵が両翼をつとめ、いまいち理論に自信が持てないインテリがこづきまわされ、彼に惹かれる暗殺・諜報技能持ちの娘がおり、事件単位の実績とその積み重ねと才能といった新たな評価軸を求めたり、必要とされるところでの労働を求めたり。
染まったボンボンであるところのメリヒムは、実力ひとつで世を渡り道を切り開くマティルダに対し、やはり貴族的流儀の抜けない好意を寄せる。同様に高い実力を持っているとはいえ、「姫」は「姫」であるがゆえにその好意は向けられない。ガヴィダが語るように、「壮挙」はそこに発生する犠牲(都喰らい)ゆえに支持を得ることはできなかったし、現状を維持してこそこそやりたい勢力・仮装舞踏会には協力を取り付けられない。この失敗を知る故にトーチを集め緩やかな「目的達成」を小鳥は図るようになる。
「壮挙」への希望に燃えた彼らが倒れた後、現れるのは「そのなれの果て」どころか、より利己的な存在であったり、より現代的な存在である。ウコバクは言うに及ばず、「新しい徒」の代表格である愛染の二人は近代以後の概念だろう。
マージョリー・ドーのような、「資本の被害者」(そして復讐前にその機会を奪われ、「救われなかった者」)と読むことができる存在もいるので、徒のすべてを革命主義方向に結びつけるのはやはり無理はあるのだが。


こういう見方をすると、『灼眼のシャナ』本編は「革命主義の過激派勢力およびそのなれの果ての破壊活動に巻きこまれ、希望と存在意義を失ったノンポリ少年が、穏健派がカウンターパートとして育て上げた、あまりに純粋な反動主義?の闘士と出会い、その洗濯板にオルグされつつ自信を取り戻す話」とろくでもないまとめ方ができてしまう。「戦う美少女の横で何もしない空気みたいなヤツ」という見方も、「生きてるようで死んでいるのはオタの表象」という見方も、そりゃまあノンポリで日常を過ごしている少年がそんな闘争にコミットするのは簡単じゃないだろうとw。で、役に立ってる肯定されてるで舞い上がってどっぷり。そりゃそんな「運動」してるなんて親には言えねえw。「昨日飲んだ解放というアンプル」どころか何飲んだんだか、怪しい連中と横断幕持って出かけるようなことはするなと言いたかった彼女?までもすっかり染められちゃって、まままあ。


………………。




…………実はここまで全部マクラ。
サンプルとはいえ我ながらくっだんねー読み方だよな?w。
ところが、くっだんねー読み方ほど、思いついたときにいろいろ思ってしまうわけだ、身の程知らずにも。この間のリバティランドの話書いてたときの俺や、ちょうどこのネタで書く前に「シャナ 革命」「とむらいの鐘 革命」とかいくつかぐぐってみたら該当かかってこなかったときの俺みたいに。後者は「赤いポスター」の歌詞がかかってきたか。


ラノベやエロゲがアカデミズムによる視線を受けるようになるとこういう読み方が流行りまくる、というかそうなりつつあるわけで、そこでの「まとめられた構図」から外れる「キャラクター自身の感情」はあまり顧みられないようになっている気がする。違うだろ一番面白いのそこだろなんでそれ捨てて昔ながらの70年代教条主義ジュブナイル時代に逆行してんだよおい。以前「哲学者の名前が『属性』化するのも時間の問題」なんてこと書いたけど、俺は結構本気でそういうのは勘弁して欲しいと思ってる。



以上、ここまで付き合わせて全部俺の自戒。この半年書き物してる間ずっと引っかかって、鬱々してたけど、全部終わって吐き出したらちょっとスッキリした。正直スマンカッタ。明日からは通常運転の雑記に戻る。

*1:冴木忍『いかなる星の下に』のイグレット、宇野比呂士『キャプテンキッド』より十字剣クルセイダーズのエピソードなど。