「性的マイノリティ」は可能性故なのか、不可能性故なのか。

ガチで当事者の人には近親憎悪も含めて不快になるかもしれんけどあしからず。
とりあえず「見たくない自由」ってのもあるだろうし以下省略にでもしとくか。

「性的マイノリティ」。
公的に名付けられた勢力は、まだ偏見があるとはいえ、社会的にはまだ擁護されている方だと俺は思っている。マスコミは持ち上げるしプロ市民は背後につくし。
たとえ罵倒されても、それに対抗するセオリーと、罵倒に対する社会的共闘が確立されている。


ところで、彼らは「可能である」が故にマイノリティであるのか、不可能であるが故にマイノリティであるのか。
「同性を愛することが『できる』」が故にマイノリティであるのか、「異性を愛することが『できない』」が故にマイノリティであるのか。
理論上、バイセクシャルについては『できる』以外の答えはない。同じく理論上、インター、トランスには内面において不可能性はないが身体において不可能性がある。
しかし何れにおいても、それらを肯定し、擁護する概念は性の自己決定と多様性に他ならない。


ならば、なぜ「同性を愛することはなく、しかし異性を愛することはできない」両面の不可能性を持つ人間に対して擁護が為されないのか? マイノリティは不可能性ゆえに肯定されるのであれば、このような人々に対して少子化だ本能だというイデオロギーでもってつがうことを強要し、つがわないことを非難することは、自己決定の原則に反するではないか。
逆に可能性という肯定原理であれば、「三次元異性を愛することができないが、二次元異性を愛することが『できる』」ことは肯定されなければならないだろう。
二次元人は「性的マイノリティ」としてその自己決定を尊重されなければならないのである。非難はすべて人権蹂躙であり差別でありシャザイトバイショウカネカネキンコである。いやまあカネカネキンコまではいわんが謝罪くらいはしやがれ規制派オバン。


まあ二次元人については多少暴論だとしても、「できない」「できる」ことをもって、自己決定と多様性の元マイノリティに分類されるのなら、三次元異性に全く恋愛感情を持てなくなってしまった*1人間がなぜマイノリティとして擁護されることもなく、人権蹂躙ともいえる罵倒とつがいの強制力に晒され、つがわないことによって社会的価値を切り下げられなければなければならないのか。社会的使命や生産性、人間の役割、自然などというお題目で非難をするのであれば、それはナチスドイツでありスターリンである。サヨクノミナサン、コレガゼンタイシュギノアシオトデス。
重症二次元人、重度ネガでシャレでなく帰ってこれない「異性を愛することができない」人々の人権保護団体・救済組織はいつ頃できるのかねえ。

*1:「戻れる」、「戻れない」はここでは議論にならない。なぜなら「ストレート」の恋愛が「できる」バイセクシャルはマイノリティとして肯定されているのであるから。