法的思考と訴訟的立論。

「なぜ右は法律的な話をもって左に対抗するのか」という疑問が天先輩との雑談で登場する。
端的にいうと、これまでの弾圧に対抗するための手段の一つとしか言いようがない。
なによりもレッテル貼り*1に苦しめられ感情論で攻撃されてきたために「証拠によって論理的に反撃する」という至上命題を立ち上げ、そしてそれら資料を妨害なく手に入れることができるようになった若い世代の右にとって、「理論と証拠をもって第三者に事実認定をさせる」訴訟手続き的議論は必然だったからだ。
しかしこれはなんのことはない、「論理的に」「客観的証拠*2によって」「事実を明確にしておく」という議論の当たり前のルールに立ち戻っただけなのである。
個人的に面白いと思うのは、話題そらしを防ぐための「論点整理手続き」を最初に明確化する進行が最近増えたこと。対訳掲示板見てると追い詰められてずらすのに必至なのがいるからなあ……。

ま、なんにせよ比類無きラディカル憲法*3の国なので主張するだけなら自由。しかし証拠によって証明されなければ意味がない。自称被害者の主張だけが資料として認められるなら、仕事スレまとめサイトにいけば資料はごろごろしてるわけで。

*1:俺だって軍国主義者呼ばわりされたのは一度や二度じゃない。

*2:イザベラ・バードを筆頭に欧米資料や第三者国の資料がしばしば出てくるのは、根拠もなく「世界が」「アジアが」とか言い出すアホ対策でもあるが客観性のアピールでもある。

*3:明文で男女平等や婚姻の当事者主義や私有財産の公共利用を書いている豪快っぷりを左の人は見ていないw。