やっちまった……。

 「不登校」の記事についてやじうまNow Reading!さんから反論をいただいた。


 で、「やっちまった……」というのは、なによりも私自身が昨日私情(むしろ私怨)の勢いで、不登校それ自体を(自殺や当事者殺害には至らない形での)「最終的選択」としてしか捉えない書き方をしてしまったという壊滅的大穴のこと。故に「不登校は『権利』」言説は濫用するものであってはならないということについて書くまでもないことだと思っていた。
 つまりは、
 学校内部での各種犯罪の被害者ではあっても、学力の問題は言うに及ばず、わずか一握りの教員でも前向きな人間関係があるならばこれを完全に(一方的に)切断して引きこもるのはよほどのことでないと良心へのダメージがある、本人にしても「犯罪者どもに勝利宣言させるだけだ」という抵抗心があることを考えると「不登校という『権利』」はその行使につきまとうリスクが少なくない。このリスクとの衡量をあっさりと排除できるレベルに至ったなら躊躇わずにその権利を行使せよ、さもなくば生命身体の危険がある
 ……といった、いわば「古い」不登校観による、極めて狭い対象だけを頭に置いていたのだ。

 しかし現在のような、通信やフリースクールなど逃げ道がある時代には、「不登校は『権利』」言説があっさりと濫用されてしまうことは考慮の外にあった(頭を冷やしてものを書け俺)。やじうまさんが「不登校は『権利』」言説に拒否感を抱くのは学校という装置の必要性からはむしろ当然のことだ(もっとも、私は学校という装置をそこまで信頼していない)。
 なんというか、もう言い訳のしようがない。で、冒頭の「やっちまった……」となる…。


 また、不登校をめぐる人々についても、『権利』言説に対する差異はどこから生じるのか、というと「立っている位置がまったく正反対の極地であるから」ではないかと思う。

 私が「不登校は『権利』」言説を立てるのは、つまるところ前述のように学校が学校としての役割を果たさない中で限界まで追いつめられ学校の全て(教員を含む)から存在さえも否定されている児童がとった選択について、「逃避するような弱者は否定されて当然」と言い出すような教員に対する嘲笑(おまえらが目の前のいじめ(主に傷害、脅迫、遺棄・損壊といった構成要件該当行為)も始末できないくせに授業で唱える念仏「個人の尊重と権利」だぜ全力上げて尊重しろよゲラ)であるし、
 逆に「不登校は『権利』」言説に賛同できないのは「学校の役割」を必要なものと理解し、言説を濫用する児童とその結果機能不全に陥る学校や、いわゆる「明るい不登校」や「不登校エリート」に対する危惧感を持っている立場だと言える。
 やじうまさんがいう「特権意識」、「学校なんて行かなくてもいいんだ、あんな低レベルなヤツらと関わる必要なんか無い」的なものを自虐ネタでなく本気で持つようになったらたしかにどうにもならん。


 とはいえ、結局のところ、裏を返せば「どこまで学校というものを信頼しているか」「学校にいる教員・児童がどこまで対人モラルを持っているか(モラルを教育できない親が増えているこのご時世ではなおのこと。また、やじうまさんが一定限度で肯定する「学校の機能上必要な」闘争についてもこの限界を規定する反対動機が存在するかどうか)」に依存するこの立場の違いは、個人の感情と所持している(いた)アドバンテージ、あるいは当事者の被害経験から発生する差異にすぎない。

 ところが、それらさえも恐ろしいことに「今だから言える」言説の上にあるものでしかない。
 そのため、

だからどうしろ、と言わないのがやじうま流、というのもいつものお約束。

 …というやじうまさんのまとめには部分的同意。
 なぜ部分的かというと、第一に私が「いじめ」の刑事犯性に対する憎悪を拭えないこと、第二に高度専門職細分化の著しい割にスキップのない日本では(カネ次第とはいえ)「不登校エリート」「明るい不登校」の誘惑があまりに強いことにある。もちろん後者は当人の発達にも問題を伴う(司法修習生盗撮で捕まる、なんてのはその典型的未来予想図だわな)し、それが不可能だった世代の敵意が「ギリギリの自衛手段としての不登校」に対しても向けられることを考えると頭が痛い。