無条件ではない。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-01-13/01_02.html
 下段・東京地検の「ビラ貼り」住居侵入事件起訴への松宮コメント。



 構成要件該当性に疑いがあることは前にも書いたが、コメントにもある「マンションで、誰でも出入りできる共用廊下部分」という点を軽視するようでは困るというのが私の主張。
 入り口ホールに管理人がいる、オートロックがある、あるいはレディースマンションである(刑法35条にいう「正当業務行為」ででも無い限り「男性が踏み込むイコール平穏を害する」であることは明白)などの具体的事情抜きに「表現の自由」「政治活動の自由」を主張するようではお話にならない。少なくとも通路部分への出入りについて一定の管理を行っているマンション等においては、ドアポストの強行は目的を問わず住居侵入を問われても仕方ないと私は考える。

 ではなぜ一般商業ビラと政治主張ビラ(もちろん無許可集会等とは無縁の平穏なものであることが前提)で差異が出るのか、ということを考えると、やはりそこには「社会的日常的行為」としての社会的認定と、「配布主体の存在そのものの非日常性」があるのではないか。
 我々は、たとえばピザ屋がビラをばらまいても「営業大変だな」と日常風景として流せる素地を持ってしまっている。「業務行為」としての認識と、完全に金銭関係のみでこちらの私的領域には踏み込んでこない相手だという割り切りがある。
 しかし政治ビラは日本という国では決して日常風景とはなってこなかった。まだ平和コンサートなどのイベント等告知であれば「広告」という認識であったかもしれないが、明らかに「主張だけ」のビラをばらまくという行為は戦後・安保闘争後の日本では「非日常の風景」であり、「日常にはいてほしくない、関わり合いになりたくない連中」の為すものであるという社会的認識が存在しているのである。ましてや戦後民主主義体制は日本人が持つ「私的関係・領域への不介入」という理念を、「精神的自由の優越」という形で「個人の自律」へと誘導してきた。住居とはこういった誘導と高度成長が生み出し、一般庶民にとっては血の滲む苦労の果てに手に入れた「国家でさえ踏み込ませることをよしとしない究極の私的領域」に他ならない(故に捜索差押には司法による令状が必要である。)。戦後民主主義体制と精神的自由の果てに、かように成長した庶民社会においては、私的領域、職業選択や思想信条の自由(19条、22条)に踏み込んでくる連中は、うっかりチャイムに出てしまったが最後延々電波的な勧誘を繰り返す某政教非分離団体や新興カルト、はたまた通信教育にNHK、といった迷惑集団と同列の認識なのである。
 結局のところ、警察の恣意的な構成要件運用という面を差し引くとしても、住民による抗議・苦情がある限りにおいてそれは「平穏ではない」という推定からは逃れ得ない。つまりは基準は当該コミュニティ、庶民社会での「社会的通念」にあるというのが現実であろう。
 「社会的通念」……日常・通常行為として、構成要件にそもそもあたらないレベルで許容される範囲での活動。それはとりもなおさず人間とのつきあいにおける礼儀と節度に他ならないと私は考えている。自分たちが正当であると信じるあまりに迷惑集団そのものの行動をとったり、あるいはそれを平然と正当化したりはしていないだろうか(自覚がないから警察呼ばれるんだがな!!)。人の生活を尊重しない連中が活動の継続だの主張に理解を得ることだの……夢は寝てから見ろ。