我ら死せる人見の巫女ゆえに。

 ハルヒに関するメタ論だの作品世界外だのいろいろ出揃ってきたなあと思いつつ。たまには真面目な話、メタ方面で盛り上がってるんだから乗っちゃえと、あえてここで5年前に完結した作品、榎木洋子の『影の王国』シリーズを持ち出してみる。(加筆、再掲)

ブルー・ムーン 影の王国(12) (影の王国シリーズ) (コバルト文庫)

ブルー・ムーン 影の王国(12) (影の王国シリーズ) (コバルト文庫)

 読んだ人ならすぐに思い出せるだろうが、「影の王国」はまさしく幻想世界維持のメタフィクションであり、同時に(主に女性の)コンテンツ消費を描いた作品である。いやまあ単純にラブコメと読めばいいし、作者本人にそのつもりがあったかどうかは知らないが。


 本来であれば神の手(?)によって滅び去っていたはずの王国を月の影へと移し、王の強大な力によってそれを維持すること、そして王の力が衰えると王子を喰らうか、王子が父王を倒し新たな王となることによって王国を支えるというのが幻想世界の骨子である。
 そして、この幻想世界を支えるために王に助力するのが「人見の巫女」と呼ばれる存在。彼女は幻視者であり、幽体離脱等の能力を持つ。王に仕え、選ばれれば最終的に肉体を捨て(死して)歴代の巫女の残留意思と感覚を共有することでより大きな力を得る。これは小説という構造においては三人称視点を得ることに他ならない。
 原初の巫女による「肉体の放棄」は、王を支えるという意思の元に為されたものである(同様に王国を支えるため創造された金目族が、群体として一人を端末に使うことで情報を共有する「一人称」「ザッピング」とは異なり、いつでも望むときに望むものが見られるという性質を小説という媒体の性質を活用したもの)が、のちに王国を支える裏の制度へと変わっていく。
 そして作品の時代、死せる人見の巫女たちは既にその大きな力で王をも操り始めている。美しい王、自らを見てくれる王を選び、飽きれば王子に味方する。そして、能力が強く王に近しい存在を生け贄として取り込み、王の思いを受けようとする。終盤では月哉に恋人として愛される瞳を死せる巫女に取り込むことによって、集合体としての死せる巫女が愛されているという幻想を得ようとする*1
 それは制度と化した人見の巫女の「生け贄」は王、王国に対する「忠誠を越えるもの」を持っていないこと、王からの愛をもとから得られていないことに起因する。幻像への恋に恋する抜け駆け禁止のオッカケ集団であるからこそ、オッカケに愛嬌を振りまかない王は見捨てられ、オッカケの一名に傾倒する王は排撃された。その果てに、瞳の感情も瞳が受ける月哉の愛も共有することを死せる巫女たちは要求した。母という属性を持つ連理が潜在的に恐れられるのも無理はない。彼女は死せる巫女たちのような「代替の効く」ものを守っているのではないのだから。


 終盤、発現するのは幻想世界の柱、カリスマによる幻想世界維持*2の否定である。百雷は死せる巫女たちの解放と拒絶を決意し、王国を滅ぼす。王国に殉じた「死せる巫女」ともども王が「眠る」ことによって王国を終わらせ、王国の一般住人を地上(現実世界)へと送り出すという結末は、一件ご都合主義のように見える(王国の崩壊が緩やかであるなど)が、幻想に関わった人間*3全部が放り出されて路頭に迷うというのではあまりに救いがない*4だろう。もちろん、「人を食う」月鬼、当初から幻想世界に土着し、しかも地上で生きていくのには非常にやっかいな存在もいる。再起不能な二次元人とか(←ヒトゴトかよ)。なんにせよ、カリスマである月哉から、意志と実力でのし上がったイヤルドに王位が移ることにより、幻想は依存するものから意志を行使する場へと変わっていく(この辺適当に書いてるので真に受けないようにw)。


 もちろん読者が持つのは「死せる人見の巫女」の視点である。月哉の焦りを感じ、瞳の思慕と焦燥を共有し、そして彼らの障害となる百雷、白藍を(最終巻寸前にその仕掛けが露見するまでは、内心どこかで)否定する*5。王国崩壊というラストを肯定するのか、否定するのかはその妄執具合による。


 で、つまるところ、俺みたいな再起不能オタもまた妄執に抱かれた死せる人見の巫女ではないかなと。ヒロインを入れ替えつつ幻想を維持し、新たな主人公や新規ユーザーを巻き込んで仲間としつつ幻想を維持し、体を捨てて高空から修羅場を見物し、自らに同化できない主人公を拒絶する。主人公だけを見ないヒロインにはそれいけヴァーディグとばかりに攻撃を開始する。もちろん連理やベニシアみたいにしがらみが入りすぎると内ゲバ開始。王の腕をつかんで壁に引きずり込む白骨の山。うーん刺激的。トップスター型・イケメン一極集中(たとえば某グループのメンバーの、演技が下手なアレとか)の消費をする側とは異なるにしても、その構造は似たようなもんだろう。

「そんな王国に何の意味があるんだ!」
「だから、滅ぼそう、この国を」

 まあ王・王子=ヒロインからすればそうも言いたくなる罠w。


 人見の巫女を守護する戦士や、クロガイ族などひとつひとつを分析していくとまた別の構図が見えてくるのかもしれないし、「幻想から連れ出す者」としてのパタナと白妃、連理やカヤティーザの「母親」という属性、連理と百雷という近親者の関係などなど、未分析の要素はいろいろあるのでもう少しじっくり考えてみたいと思う今日この頃……なんかイマイチまとまってないな。またカッチリまとめ直そう。


 なお、榎木は最後にひとつ仕掛けをしている。地上(現実世界)へと戻った月哉と瞳が手を繋ぐ*6シーンを照らす「ブルー・ムーン(ありえないもの)」。
 現実世界においても「幻想はそこにある」というメッセージであるのか、あるいはそれは幻想を出たところで結局は幻想に生きるしかないという悲観なのか。個人的には前者であってくれることを願う。



 え、地上に行く気なんかはなっから無いくせに、だって?
 よくわかってるじゃねえかコノヤロウ。

*1:もちろんここに『龍と魔法使い』でのリデルとシェイラ、そして読者の関係を邪推することもできるが、シェイラのバッドエンドは『地龍の遺産』において既に確定事項であることから、その可能性は高くないだろう。

*2:同様の維持システムを持つのがセフィーロであるが、セフィーロの場合「柱」を幻想世界の側から不必要としてしまった。あえて比較をするならば、両者の差異は幻想維持に必要なコスト配分だろう。一人の王によって(消費が)支えられた世界と、複数のキャラに(消費が)分配された世界、ひいては三次元と二次元との差異である。芸能界ないし宝塚の「トップスター」構造と、二次元の「死角のない属性」の差異だと私は考える。

*3:幻想消費世界を支えた労働者等?

*4:エヴァにしてもそうだが幻想世界からの追放が90年代末期のトレンドだったのかしらん。

*5:位置としては『沙耶の唄』の医者も似たようなものか。

*6:とりあえず月哉は、全12巻かかって手を握るのがやっとのラストシーンってなんだよ!というツッコミを受けるべきである……w。「風の王国」なんざ二巻でヤってるぞとw。